「物が考える」という意味

 普通人間身体に理性や自我が宿っていて、それが物事を考えるとされています。ですから机が商品語を話したり、踊りだしたりするのは倒錯だというわけです。商品は経済関係の中で、労働時間に比例した価値をもつとされ、取り引きされます。つまり商品自身が価値関係を結んで人間の社会関係を支配するのです。もし価値以下に取り引きされますと、その商品の再生産に必要な物資や労働力が確保できませんから、生産量が落ち、社会的需要が満たせなくなって、結局価格が上昇し、価値通りに取り引きされるようになる傾向が働きます。このような価値法則を認識した上で経済活動をする必要がありますから、商品が指し示している価格機構が明らかになってきたのです。
 マルクスは、社会的事物が人間でもないくせに、人間の社会関係を取り結び、その中で人間は事物相互の関係によって規制されざるを得ないこと問題にしました。そしてその事を人間関係の「物象化」と表現して、その転倒性を批判しました。その事態においては社会的諸事物は人間の社会関係を取り結ぶ主体となっているのです。この事物の人間化をフェティシズム(物神崇拝)として捉え、近代資本主義社会ではこの未開人の宗教が支配していると喝破したのです。
 私は1986年に青弓社から出版しました『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』で、マルクスの社会的諸事物の人間化を倒錯だと捉える物神性論を大上段から批判しました。要するにマルクスの議論は、人間と物との抽象的な区別に固執してしまっているのです。マルクスも近代の主観主義的な人間観に引きずられています。デカルト的な主観・客観図式では、主観的な意識を人間と置き、客観的な事物と対極的に捉えます。その上で客観的な事物の法則を認識して、自然を支配しようとしました。人間はあくまで思惟の主体であり、自由な意識だとしたのです。
 産業革命以来、人間は逆に機械にこき使われるようになります。まるで機械の部品のような存在にみえたのです。それでマルクスは、物として捉えられたり扱われたりすることを「物化」と表現して、人間性を否定されたかのように考えます。反対に事物がいかに社会的に重大な役割を果たし、社会関係を取り仕切っていても、事物は本来主体性がないものだから、それらが人間を支配するように見えるのは、実はとんでもない倒錯であって、その背後にある人間同士の支配関係の偽装された姿に惑わされているのだというのです。先程言いましたように、「机が踊りだす」なんて、とんでもないマジックだという批評です。
 「机が踊りだす」なんてことはあり得ませんが、机が机としての役に立たないでは困ります。また商品として造られた机が、価値通りに売れなかったり、社会的に必要な机の再生産を促すように経済的に機能しなかっても困るわけです。ということは商品語が話せなくては困るのです。社会的な事物にはそれなりの社会的な役割があり、社会関係においていろんな働きかけをしています。機械制大工業の工場現場では、生産の主役は機械なんです。労働者はスイッチを入れたり、油を指したり、調子をチェックしたり、いろんな機械の補助役をしています。完全なオートマティックの無人工場が理想ですが、機械に置き換えるよりも、身体労働力を使った方が経済的に合理的な作業だけに労働者が配置されているのです。労働者は工場の現場では生産システムの中で多機能や単機能の小型自動機械として作業しているわけです。
 人間身体には頭脳があって考えているが、機械や道具や生産物は頭脳がないので、考えたり、感じたりできないから、人間以外の事物が社会関係を取り結んだり、人間を支配したりすると考えるのは倒錯だという発想にも、紋切り型の思い込みがあるのです。たしかに頭脳が考えたり、感じたりするのに中枢的な役割を果たしているわけですが、だからといって、頭脳という器官が考える主体だとは言い切れません。また身体に主体を限定することもできないのです。机や機械や石油やその他諸々の社会的事物や諸商品は、社会的諸関係の中で、自己の有用性や価値をアピールし、それに相応した意識活動を人間の感覚諸器官や中枢神経を介して生み出している主体だという見方も倒錯とは言えないのです。
 例えば「宇多田ヒカル」という16才のニューヨーク育ちのシンガーソングライターが大ブレイクしていますね。彼女はビデオでだけテレビ画面に登場し、ハスキーで魅惑的なボイスに全く日本人離れしたビートを載せて、グローバリズムを無意識に志向している若者達のハートをゲットしました。学業優先とか言って生出演しないというパフォーマンスがファンの飢餓感を生み、それが初売り200万枚を数日で完売するというCDアルバム『ファースト・ラブ』への爆発的な需要を生み出しています。また母親が往年の演歌のスーパーアイドル「ホッカイローのケイコたん」こと藤圭子であるという、ミスマッチも彼女の底知れない才能を予感させています。それに彼女は飛び級するほどの秀才で、コロンビア大学の哲学科への進学を目指しているということです。ひょっとして『ソフィーの世界』に惹かれたのかもしれません。というような様々な情報が私の意識経験の流れを造って、「宇多田ヒカル」についての私の思考を形成していきます。
 デカルト的な主観主義だと、このような思考過程を考えている「私」がまずあるわけです。それで考えるのは「私(=人間)」であるということになります。でもこの情報の内容そのものは、私が意識するかどうかは括弧に括っておいていいんです。意識経験の流れが「宇多田ヒカル」についての思考過程それ自体なんですから。そうしますと「宇多田ヒカル」が意識経験として活躍することと私が考えるということは同じ事態なのです。ですから「宇多田ヒカル」についての思考や感動は、「宇多田ヒカル」自身がみんなの心に生み出しているわけです。それに西田の根本的経験論では、各個人の「宇多田ヒカル」経験の集合以外に、「宇多田ヒカル」という実体があるわけではないのです。だからテレビのビデオ映像でしか登場しない「宇多田ヒカル」の存在は、だれも生の宇多田ヒカルを見た者はいないという幻想性をメディア人間「宇多田ヒカル」に与えています。それでかえって我々の一人一人の中で、「宇多田ヒカル」という「物=対象」が考えたり、感じたり、はじけたりしているのです。
 西田の『働くものから見るものへ』への「内部知覚について」の中にこうあります。
 「数理を考へるといふことは、数理自身の内面的発展と考へられなければならぬ如く、色を視るといふことも、色自身の内面的発展でなければならぬ。考へるといふことが、思惟が思惟自身を見るという得るのみならず、見るといふも色が色自身を見ると云ふことができるでもあらう。」
 また『無の自覚的限定』にもこうあります。
 「判断とは物が物自身について語ることでなければならぬ、客観的存在が自己の客観的内容について語ることでなければならぬ。」(全集第6巻15頁)
 意識を生み出し構成している自然的・社会的な諸要素が協働して、巨大な世界的言語システムや生産機構、情報システムを介して膨大な意識を生産しているのです。我々の頭脳もその中に組み込まれた有機的なマシーンの一つに過ぎません。そこで私は、『人間観の転換ーマルクス物神性論批判』(青弓社刊)で、人間を人間的な諸関係やシステムの総体だと捉えているのです。その上でそれを構成する個々人の身体や社会的諸事物を「人間体」と名づけたのです。「人間体」が相互に働きかけあい、消費や再生産をしあう関係として社会を捉えた上で、人間の意識が生み出されていく構造を捉え返すべきだというのが私の主張です。

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