繋辞の論理

 超越的述語面である「絶対無の場所」では、主語である対象が直観されます。対象が自己自身として写されているわけですが、そこでは見る者と見られるものの断絶が解かれ、主観即客観になっています。それは客観を自己自身と捉えているという意味では自覚的なものになっているのです。それが実在だというのが西田の立場なのです。ですから西田の「場所の論理」は、より厳密に言えば、「述語の論理」というより「繋辞の論理」なのです。私の恩師である西川富雄は『西田哲学を学ぶ人のために』(世界思想社)の「西田哲学と存在論の伝統」の中でその事を強調しました。
 西田自身が「繋辞の論理」を分かりやすく説明しているのは、『哲学概論』の講義録です。Aが特殊でBが普遍とします。「AはBである」例えば「リンゴは植物である」という判断では、述語に主語が包摂されます。CはBより普遍だとします。「BはCである」例えば「植物は生物である」となります。最大の普遍の方向にすべてを包摂する究極の実在を求めるわけです。これが「述語の論理」です。それに対して「主語の論理」は、主語Aを実体と捉え、述語BをAの作用や現象とします。そして主語の主語として全てを内属させるような最高の主語が、究極の存在だということになります。
 では『哲学概論』から「繋辞の論理」の部分を引用しましょう。全集第15巻、218頁〜219頁からです。講義録ですから、西田にしては随分わかりやすくなっています。
 「しかし第三に、真の実在を主語にでもなく、また述語にでもなく、却って主語と述語を結びつける繋辞の方向に見る考へ方も成立し得る。判断の形式で示せば、A1 ist B1 A2 ist B2  A3 ist B3 であり、AがBに帰するのでもなく、BがAに由来するのでもなく、AとBとが共にそれを結び付けてゐる繋辞の二つの現はれと考へるものである。大体判断といふものは、まづ主語があつて後にそれから述語が引き出されるのでもなく、また逆に述語的、一般的なものが先にあつてそれから主語的、個別的なものが限定されるのでもない。心理学的に云へばヴントの所謂Gesamtvorstellun(全体表象)に基づいて判断は成立するのである。『馬が走る』といふ判断の前に、『走る馬』といふ全体表象があり、そのUrteilen<原子分割>が即ちUrteilen<判断>なのである。論理的にはヘーゲルのkonkret Allgemeines <具体的普遍>がそれであらうし、作用的に見ればフィヒテのTathandlung <事行>もそれであらう。畢竟、自覚的なものを実在と見る考へ方は、判断の形式にすれば繋辞の立場なのである。シェリングのintellektuelle Anschauung <知的直観>の如きは、かかる具体的自覚の真相に我々を導くものと解してよい。それは一種の神秘的直観と云つてもよいであろうが、論理的には繋辞の論理によつて考へられるのである。真の実在は、主語の方向にでもなく、また述語の方向にでもなく、却って繋辞の方向にあると云へるであろう。」
 「馬が走る」という判断を下す場合、「馬」という表象をまず思い浮かべ、次に「走る」という表象を思い浮かべて、それらを結合するわけではありません。まずただの「馬」ではなく、「走る馬」を、ただ抽象的に「走る」ではなくて、「走る馬」を全体表象として思い浮かべていたのです。具体的な経験を考えますと、抽象的な「馬」ではなく、「走る馬」を表象するわけです。そして何を表象しているのか説明する段になって、事物とその状態に原始分割して、それらを主語+述語の形にして結び付けるのです。
 「馬が走る」というのは、全体表象としての「走る馬」を見たことの説明です。全体表象としての「走る馬」は、純粋経験や実在としては生命活動ですから、胸踊り、血湧くような感動を伴っていたのです。「走る馬」という言葉で表現してしまいますと、ほとんど「馬が走る」と同レベルの無味乾燥な記号表現に漂白されてしまうので要注意です。ですから全体表象としての「走る馬」は具体的普遍として豊かな実在だったということです。
 フィヒテの「事行」というのは、ノエシス的なもので、意識活動を自我の自己定立活動として捉えたものあり、自覚的なものです。「馬が走る」という思惟は、「走る馬」という自分の感動体験を表現し、構成しているわけです。フィヒテによれば、「走る馬」体験も自我の自己定立活動として「事行」だということになるのです。ドイツ観念論哲学では「思惟=存在」ですから、この「事行」が実在です。
 シェリングの知的直観は、理性が直接的に実在を直観し、全自然との合一を実現するロマンティズムです。西田もロマンティズムですよ、超越的述語面である絶対無の場所で、自己が自己自身を写す自覚として、主語である事物が自己に包摂されるのですから。シェリングは、人間の認識を自然の自己認識として自覚していました。マルクスの『資本論』を西田哲学とヘーゲル哲学を折衷して経済哲学したのが私の恩師梯明秀ですが、彼は『全自然史過程の思想』(創樹社刊)に立って、人間の意識を「地殻の自己反省」と捉えたのです。西田においては「物となって見、物となって考える」という表現になっていましたね。フィヒテもシェリングももちろん西田も、主語面である対象と述語面である意識に分割される前の、両者の同一性を示す繋辞の方向に、実在を求めていたのです。ですから「AはBデアル」の「デアル」の方向に、原始分割される前の純粋経験が生じており、その場所が「絶対無の場所」なのです。

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