普遍的な原理を樹てて、それで一貫して、体系的に世界を説明するところに宗教や哲学の特徴があります。でも特定の宗教や哲学が強力に成りすぎますと、その原理にフィットするものだけが善いもの、あるいは価値あるものとされ、その原理に反するものは、悪いものあるいは価値のないものとされがちです。それに宗教同志の対立やイデオロギー対立が原因で、これまで幾度も戦争が起こり、魔女狩り、異端審問、言論・表現に対する弾圧、治安立法によるおびただしい人権侵害が行われてきました。ですから頭の中で形而上学的に真理の体系を樹てようとする哲学的な営み自体が、時代の変動期には問題視され、批判に曝されてきたのです。
ベーコンらのイギリス経験論は、実験観察に基づく帰納法的な事実からだけ学問を組み立てようとし、ギリシア的な形而上学の徹底的な批判を展開しました。フランス革命は啓蒙主義的に自由な世界を設計して、その実現を無理に押しつけようとして失敗しました。この失敗に懲りて、抽象的な原理を排斥し、快楽や便益などの次元で、功利主義的・実証主義的に社会改良を積み重ねることを追求しようとする傾向が強くなりました。
また20世紀に入って、「社会主義」世界体制が形成され、東西冷戦が展開しましたが、結局ゴルバチョフ政権の登場をきっかけにして東西冷戦が終息に向かい、「社会主義」世界体制も崩壊してしまいました。それでますます「イデオロギーの終焉」が現実味を帯びてきたのです。そしてマルクス主義のように普遍的な原理を樹てようとすること自体が、間違っていたというような清算主義的な総括が流行しました。「歴史の終焉」と共にユニバーサルなもの、つまり一般者を否定する「哲学の終焉」が、当然の良識のように語られるようになったのです。
しかし世界や国家は生きた全体として変動します。新しい時代の原理を掴めないと、羅針盤のない船のように大海原を浮遊し続けるしかないのです。我々が普遍的原理を打ち出さなくても、新しい権力者やエリートたちは、彼らに都合のよい原理を嗅ぎつけ、体現して登場します。我々が手を拱いていると、みるみるうちに悲惨な状況に追いやられます。バブル崩壊後の長期不況の下で、労働基本権がほとんど有名無実になり、長期雇用体制が音を立てて崩れつつありますが、これなどは労働側が新しい時代の原理を全く打ち出せなくなった結果でもあります。
産業・交通・通信のハイテク化が進行する中で、近代国民国家が時代遅れになりつつあることは否めません。企業は国家の枠を越えて活動していますし、欧米に日帰りでビジネスをする実業家がいたり、ともかく国境規制は経済効率をおおいに妨げています。各国間の通貨・税制などの相違が経済のグローバルな発展の障害になっています。国際的な投機資金が引き起こす通貨危機によって、経済に大打撃がおこるような事態をなくすには、通貨のグローバルな統合が不可欠ですし、国民国家の枠を取っ払うことは経済的には21世紀前半の現実的課題になっています。もちろん地球環境問題に対処するためにはどうしてもグローバルな環境基準の設定と、排出権の国際取り引き体制の整備、および超国家的な規制機構の創出が必要です。またこのようなグローバル化の進展と共に、集団安全保障体制の構築による軍事の統合が求められます。とは言いましても、それがアメリカ合衆国のような特定の国の覇権の確認であったり、軍備をなくそうとする国にも軍事的責任を負わせるものであってはいけませんが。
こうした諸課題の存在を明確に踏まえて、世界統合の時代を展望することで、始めて現実の様々な問題への処方箋が書けるわけです。つまり歴史は終わったわけでも、原理を無くしたわけでもないのです。むしろ歴史は近代国民国家の時代から脱近代のグローバル統合の時代に向かうクライマックスに達しつつあるのです。もちろんその前提としてゴルバチョフが提唱した「全人類的課題の優先」での国際的一致があります。地球環境の保全、経済的困難の克服、科学技術の交流、集団的安全保障の確立などに向けて、グローバルな協力体制を作り上げるということでは価値の共有が可能になりつつあるのです。詳しくはフランシス・フクヤマの歴史終焉論を批判し、ヤスパースの歴史哲学を再評価した拙著『歴史の危機ー歴史終焉論を超えて』(三一書房、1995年刊)を参照して下さい。
経済運営のあり方や人権意識などでまだまだ地域的なずれは大きいわけですが、グローバルな経済や文化の交流が進展する中で、そういう面での相互理解も深められると思われます。つまり「普遍妥当的な価値」が存在し、成長しているということです。これは現代世界が喪失していたと言われていたものです。現代世界では、「普遍妥当的な価値」など存在しないということを前提に、階級意識の先鋭化や個的実存の絶対化がマルクス主義や実存主義の流行を呼んだわけです。しかし近代300年の歴史を振り返ってみますと、そこには人権の持続的な発展が見られましたし、価値観の分裂も2度の世界大戦と東西冷戦を経て、基本的人権の尊重とデモクラシーの原理が左右の全体主義を克服して、普遍妥当性を実証したのです。
市場経済と資本主義の普遍性も証明されたかどうかは、まだまだ議論の余地がありそうです。市場万能主義や資本主義の原理は、経済的不均衡や不安定を増し、貧富の格差を拡大します。特にグローバルな環境保全は、市場原理にだけ任せておけません。市場経済と資本主義の有効性を最大限に生かしながらも、社会的な公正や地球環境の保全を優先させるためのグローバルな規制や国家的規制の必要、ローカルなコミュニティによる様々な協同の試みも組み込んでいくべきでしょう。また資本主義企業も企業自身が協同体的性格をもつようになります。その運営の民主化と、地域社会での企業の社会的責任の明確化が求められるのです。こういう方向はあるいは21世紀における「社会主義」と言えるかもしれません。
私が述べました「普遍妥当的な価値」の内容は、余りに常識的過ぎてつまらないと思われるかもしれませんが、これらをしっかりと共通認識として持っていれば、世界認識や歴史認識でそれほど深刻な断絶は生じない筈です。そしてユニバーサルなものつまり一般者を原理とする哲学の形成にも理解を示せる筈なのです。もっともグローバルな共同やローカルなコミュニティの形成、企業の協同体化などが新たな全体主義として、個性や特殊性の抹殺につながるのではないかと懸念される方もおられます。確かにグローバリズムも紋切り型になって、国民性の喪失や故郷の喪失となる恐れはあります。全人類的な環境問題についての高い自覚と討論がなければ、危機の進行と共に、グローバルなエコ独裁が出現しないとも限りません。そうなりますとエリートによって造られた「普遍妥当的な価値」のイデオロギー的な押しつけに成ってしまいます。そうならないためにも個別者がいかに自らの中の普遍性に目覚めて、普遍者としての自己を個性的に自己表現して生きることができるのかを、西田哲学からもその手掛かりを学びとることが大切です。