一般者の自覚的体系

 西田は1927(昭和2)年に『働くものから見るものへ』を岩波書店から出版しました。西田の本は、1917(大正6)年の『自覚に於ける直観と反省』以来死去するまで岩波書店からしか出版されなくなっていました。そして翌年58歳で京大を停年退職しています。停年は本当は60歳なんですが、戸籍上では学校に早くあげて英才教育しようとした父親の工作でそうなっていたのです。この早めの退官が彼の執筆活動に幸いしたのか、退官後に西田は次々と力作を発表しています。退職後の17年間の著作の方が、それ以前の全著作よりはるかに多いのです。1930(昭和5)年に「場所」と「絶対無」の哲学を本格的に展開した『一般者の自覚的体系』を世に問い、1932(昭和7)年に『無の自覚的限定』を62歳で出版しました。これで「場所」と「絶対無」の哲学が一応の完成をみたのです。
 これは入門講座ですから、西田のテキスト全体にそって一般者の自覚的体系を展開するのはやめましょう。それより総まとめ的な文章を引用して、各用語の内容や連関を説明した方が分かりやすいと思われます。そこで必要最小限と思われる箇所を取り出して解説しましょう。『一般者の自覚的体系』の「総説」451〜3頁を読んでいきます。

「絶対無の自覚。
見るものも見られるものもなく色即是空空即是色の宗教的体験。」

 絶対無の自覚においては、主観も客観もありません。物体的な存在は実体性をもたない空として捉えられ、空といっても何もないのではなくて物体的な存在として仮の姿で現れているのです。つまり世界の生成消滅がそのまま絶対無では純粋経験なのです。

「内的生命。
絶対無の自覚が自己自身を限定するに当つて、そのノエマ面として、すべて有るものを限定する最後の一般者の場所といふものが成立すると共に、そのノエシス的方向に、無限なる生命の流といふものが見られるのである。何故に絶対無が自己自身を限定するのかと問はれるかも知れない。併し絶対無といふは単に何物もないといふことではない、ノエシス的限定の極致を云ふのである、心の本体を意味するのである。それは絶対に無なると共に絶対に有なるものである、我々の知識の限界を越えたものである。かかる問其者もそこから起こるのである。」

 「絶対無の自覚」と言いますが、「絶対無」を単なる忘我の境地のように捉えますと、絶対無が自覚するということ自体が矛盾ですね。「絶対無の自覚」は、自覚ですから一般者の自覚によって到達した究極の境地なのです。「色即是空」までいくと、今度は空を色を使って認識するということです。つまり「絶対無の自覚」は絶対無自身を限定することになるのです。この限定する絶対無自身の働きをノエマ的に事物のように表現するなら「最後の一般者の場所」なのです。絶対無自身があらゆる存在を生成消滅を踏まえてたどり着いたものですから、絶対無を説明するには、場所はすべての有るものを限定しなければならないのです。
 またノエシス的に働きとして捉えれば、これは「無限なる生命の流れ」だということです。そこにすべての有るものの生成消滅が展開するのですから。生命の流れを生物の進化と勘違いしないでください。宇宙のビッグバンや火山の噴火、雨が降ったり風が吹いたり、花が咲いたりも含めて、森羅万象は経験としては、我々の生命の流れに含まれるのです。これが「ノエシス的」だというのは、そのような生命の流れを次々と生み出す絶対無の働きだということです。でも絶対無だったら何も作用できないのじゃないかと、心配されそうです。でも西田に言わせますと、絶対無は単に何物もないわけではなく、ノエシス的限定の極致であり、心の本体なのだということです。つまりノエマ的(対象的)には無であってもノエシス的に働きとしては無限にあふれ出ているのです。だからこの絶対無は、絶対に無だけれど絶対に有だとも言えるのです。でもノエシスですから言葉では対象化できません。一見何もできないように見えますが、全てを生み出しているとも言えるのです。

「広義に於ける行為的一般者或は広義に於ける表現的一般者
絶対無の自覚のノエマ面的限定によつて成立する最も根本的なる一般者がかかる一般者と考へられるのである。そのノエシス的限定の方向に行為的自己といふものが見られ、そのノエマ的限定の方向に表現といふものが見られる。併し行為的自己といふのは、無にして見る自己のノエシス的限定の意義を有するを以て、何処までもノエマ的にその内容を限定すると云ふことができない。故に広義の行為的一般者はノエマ面に即したものと、ノエシス面に即したものとの二つに分れるのである。」

 「絶対無の自覚」を対象化してノエマ面に限定して捉えますと、広義の行為的一般者と考えられるとしています。西田は意識の統一面を意志として捉えていました。ですから絶対無の自覚によってピュアな気持ちで生きようとする意志が働いているのです。それで最も根本的な一般者は、行為的一般者なのでしょう。そして行為的一般者を働きとしてノエシス面に限定して捉えると行為的自己が見られるというのです。つまり意志に基づいて何かを生み出そうとしたり、変革しようとしたりする働きとして行為的一般者は捉えられるのです。このような行為的一般者を個人の活動に限定して捉える必要はありません。宇宙や自然に働く創造や消滅の様々のドラマの中に、「大いなる生命」の意志の働きを感得することがありますね。そう感じているということが、既に「大いなる生命」の意志と純粋経験的には合一していることですから、そこに行為的自己が見られるのです。
 行為的一般者のノエマ的限定の方向に表現が見られるというのは、内的生命が森羅万象(ありとあらゆる物の姿)の形をとって経験されるということです。森羅万象といいますと一般者の意志とは無関係に存在しているように思われます。そこで「表現」というのは不適切だと思われるかもしれません。しかし森羅万象に分類されて認識される以上は、知識の体系が適用されているのです。ですから知識の体系によって行為が成立するのです。知識の体系は行為の連関の中で、そこに使われる記憶が整理されたものなのです。それに沿って諸事物が経験されたり、造りだされたり、改変されたり、消費あるいは消滅されたりするのです。ですからすべての事物や事象は、行為的一般者のノエマ的な限定としての「表現」にあたるわけです。

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