- 「狭義に於ける行為的一般者即ち叡知的一般者。
- 行為的自己が自己自身の内容をノエマ的に見るといふ意味に於て、行為的一般者のノエシス的限定面と考へられるものが、叡知的一般者といふものである。歴史的自己といふのはかかる一般者に於てあるもののノエシス的方向に超越したものと考へることができるであらう。それは既に広義の一般者に於てあるものの意味をも有つたものである。」
行為的自己つまり実践的主体が実践的に生きていくためには、世界を対象的な諸事象の連関として認識しておく必要があります。それが自分が生きる世界の姿として、自己自身の内容なのです。「敵を知り己を知れば、百戦百勝危うからず」という言葉が『孫子』にありますが、難局にぶつかったとき、難局は打破すべき敵です。つまりその難局こそが状況としての自己自身なのです。
もちろん自己と相対している対象が自己自身であるというのは、主観・客観認識図式に立てばまるっきり間違っています。事物の客観的認識においては、自他の区別や事物相互の区別が不可欠です。ですから対象が自己であるとすればある時は薔薇が、ある時はにぎり飯が、ある時は恋人が、ある時はトイレット・ペーパーが自己になってしまい、薔薇=にぎり飯=恋人=トイレット・ペーパーになりかねません。これは物事を客観的に区別する場合には間違いですが、自己を認識する場合は薔薇、にぎり飯、恋人、トイレット・ペーパー等々が自己との関わりにあるという諸事物の同一性から説明するのは、あながち間違いとは言えません。それらの諸事物の人格的な統合として自己は存在しているのです。これが「自己自身の内容をノエマ的に見る」ということです。そしてそれらの諸事物も自己なり、他の人格なりの特定の人格に統合されることによって存在しているのです。
遠藤周作のイエス像も、主観・客観図式を超えた述語論理で展開されています。ですから、イエスが遠藤にとって何よりもまず「愛の同伴者」であるとしますと、同様に「愛の同伴者」であるものはすべて、「復活のイエス」であることになります。犬、ピエロ、犀鳥、九官鳥、私が棄てた女、異端牧師大津など挙げればきりがありません。つまり犬=ピエロ=犀鳥=九官鳥=私が棄てた女=異端牧師大津となってしまいます。このように遠藤は、我々の人生における、復活したイエスとの遭遇体験の数々を作品にしたのです。それらは決して消すことが出来ない体験だというのです。
「自己自身の内容をノエマ的に見る」を、現在の経済情勢との関わりで考えてみましょう。平成大不況下で企業は軒並み深刻な業績不振です。そこで大リストラで難局を乗り切ろうと、経営者は無慈悲な人員削減案を提示してきます。不況開始当時は4・50代の団塊世代が余剰だといって、整理対象にされていました。勤続20年や30年で給与が高いわりにハイテク技術革新についていけなくて、戦力外になりつつあるから、これを切るのは大変お気の毒だけれど効率的には効果が大だという経営側の理屈です。ところが最近は30代まで整理対象になりだしました。バブルの時期に玉石混淆で採用しすぎたというわけです。経営者の思惑通りには伸びなかった人材はばっさりやろうということです。こうして大失業時代になりますと、景気はますます落ち込んでしまいます。ベンチャー企業が伸びて雇用を吸収してくれればいいんですが、何分不景気で自信をもって銀行もベンチャー企業には投資しにくい状況です。
労組は賃金を上げれば需要が増大して景気がよくなると言いますが、そんなことをすれば企業の赤字が増えて、大幅に人員整理しなければならない、雇用を守りたければ、賃金を抑制させろと経営者は言います。でも賃金を抑制すれば景気には良くないんです。こんなことではにっちもさっちもいかない。大状況的に景気が良くなるまで失業や低賃金に耐えるしかないということになりかねません。
堺屋太一経済企画庁長官の著作に『知価革命』という名著があります。これからは知識や情報が価値生産の中心になっていくというものです。そのことの真偽はともかく、現在の不況の構造や原因を正確に認識し、その克服の道を明らかにし、各企業や1人1人の国民ができることを明確にしていくことが大切です。1人1人の労働者が自らの置かれている企業や現場の状況を正確に認識し、どのような打開策があるのか、その中で自分を最大限に生かし、成長させる活路は何かを知らなければなりません。ただ受け身に資本の攻勢から身を守るだけではだめで、企業や職場の将来性のあるあり方を提案できるように自らの知的・技術的能力の開発を指向していかなければならないのです。
このようなイメージで「自己自身の内容をノエマ的に見る」という意味を理解してください。つまり自分の内容を職場や家庭や自分が造っている商品等の中に、事物の中に見いだすということです。 「行為的一般者のノエシス的限定面」が「叡知的一般者」だというのも難しい表現ですね。世界は行為的一般者の様々な姿で展開するわけです。つまり実践的な諸連関として現れます。具体的な社会的な諸事象や自然的な諸事象としてノエマ(対象面)的に展開するわけですが、こうして自己自身の内容をノエマ的に見るためには、常に世界をイデアに照らして見ようとしなければならないのです。イデアというのは理念ですね、理想の型という意味です。もっとも西田は「イデヤ」と表記しますが、この講義では「イデア」にしておきます。
イデアに照らして意識現象を見るとなると、意識経験を超越することになりますね。そうしますとあくまで意識経験に即して実在を捉えるラジカル・エンピリシズムの立場と矛盾しないでしょうか。そんなことを言いますと、場所や絶対無などを設定することもある意味では、意識経験を二重化あるいは超越することです。イデアは内的生命の深部にあって、行為的自己がそれを自己自身として直観するのです。しかしイデアは感覚的あるいは対象的に観るものではありません。むしろノエシス的にイデアに常に意識現象を照らして見ようと限定する働きが叡知的一般者なのです。
「歴史的自己といふのはかかる一般者に於てあるもののノエシス的方向に超越したものと考へることができるであらう。」というのも難しいですね。「歴史的自己」とは、歴史として展開される自己です。歴史体験ですね。歴史体験の意味を叡知的一般者がイデアに照らして捉え返そうとしますが、歴史はイデアに照らすわけにはいきません。歴史というのはそれぞれの民族や地域で事情が違っていて、共通の尺度では語れませんし、1回きりのものです。その意味で叡知的一般者を超越しているのです。
でも西田はこうも言っています。「我々の行為的自己が深い生命のノエシス的限定としてイデヤを見ようとするのが歴史である。」(「総説」全集第5巻、449頁)実践的な行為的自己は深い生命の働きとして、常にイデアを歴史体験しようとします。「深い生命のノエシス的限定」ですから、この傾向は歴史的衝動なので、なかなか止められません。まるで熱病にうかされたように、自由や平等の理念が実現したり、協同体の理念が実現するのを見ようとします。でもその時代のその社会が実現できる範囲を越えたイデアを性急に実現しようとすれば、そこに激しい衝突や戦争が起こるのです。世界は1つになるべきだという理念は、大変偉大なイデアですが、自分の生きている間に世界征服を実現しようとしたチンギス・ハーンやティムールは、侵略を抵抗無く迅速に行うために、巨大な首の山を沢山築き、逆らえば皆殺しに遇うことを示そうとしました。
フランス革命やロシア革命など理想実現に燃えて戦われましたが、その結果が恐怖独裁を招いてしまいました。しかし我々は歴史を清算主義的に灰色に塗りつぶしてはいけません。たった一度の人生ですから、イデアの実現の為に身を捧げることによって、自らの生を歴史の中に輝かせずにはおれないのです。この衝動は止めようとしても止められません。願わくば歴史の失敗からよく学んで、決して目的によって手段を聖化しないで、善い目的を達する為には、普遍妥当性のある善い方法で行うべきことを忠告するのみです。
現在のグローバルな人類的危機の克服に取り組み、新しい人類共同の新時代を造りだすというのが我々の時代のイデアです。こういう捉え方は、中高年の人からは楽天的なロマンティズムだと言われますが、最近の若者はロマンティックなグローバリズムのメッセージに対する共感が増えているのです。決して無気力・無関心・無責任な青年ばかりではないのです。これは私が立命館大での講義や予備校や高校の授業でビンビン肌で感じていることです。その意味では、素晴らしい時代に生きていると言えるのではないでしょうか。
「歴史的自己」を語るとき、イエスは見過ごすわけにいきません。イエスは世界史を二分するような歴史的実践をしました。彼は「永遠の命」のイデアを自らが「命のパン」となって、身を捧げることによって体現したのです。人間は自ら他の生き物を食べて命をいただくだけで、自らの命を「大いなる命」の循環の中に投げ出し、永遠の命として生きることを忘れています。イエスは自分の体を食べさせ、血を飲ませて、弟子たちに永遠の命を教えたのです。そのことでイエスの個性が弟子の体内で弟子の個性を圧倒して、聖餐した弟子たちが互いに相手をイエスと混同して、復活のイエスを体験したのではないかというのが、私の「聖餐による復活」仮説です。「最後の晩餐」でパンをイエスの肉であり、ワインをイエスの血だとしたのは、翌日の十字架の後で行われるべき本当の命の食事の為の予行演習に過ぎなかったと推察されます。このような解釈はまだ仮説の域を出ていませんが、私の精神分析では、イエスは自らを無にすることによって、究極の愛のイデアを見せたのです。
イエスは聖霊や悪霊という目に見えないものを、民衆に見せることによってメシア(救い主)による救いを信仰させようとしました。それで悪霊追放の演劇的なパフォーマンスを仕組んだと思われます。これも民衆にイデアを見せる例ですね。これが見事に成功してイエス教団が奇跡を見せる教団として民衆の歓呼を浴びたのです。この成功によって歴史はイエス中心に動き始めたのです。このようにエクゾシズム(悪霊退散劇)と「聖餐による復活」によってキリスト教が成立しました。そして世界一の宗教となり、世界史を2分したわけですから、そのミステリーの解明はまことに重大です。というわけで遂に4月20日付けで、拙著『キリスト教とカニバリズム』は三一書房から出版されました。そこにイエスの歴史的な実存の意義について詳しく展開されています。困った事に、三一書房争議の煽りで取次ぎがスムーズに流れていないようですので、書店にない場合はクロネコヤマトのブック・サービス03(3817)0711に注文して下さい。