表現的一般者

「表現的一般者。
行為的自己のノエマ面的意義を有しながら、而もそのノエシス的方向に行為的自己の限定の見られないものまでも総括して、表現的一般者と考へることができるであらう。
 その中に於て判断的一般者と自覚的一般者とを区別することができる。表現的一般者に於ては叡智的自己といふ如き客観的自己は見られないとしても、行為的自己のノエマ的限定として抽象的自己の限定即ち主観的自己と考へられるものが、表現に即して見ることができる。この故に表現的一般者に於てノエマ面とノエシス面とが対立し、前者が判断的一般者と考へられるものであり、後者が自覚的一般者と考へられるものである。而して表現的一般者の限定といふも、固、行為的自己の自己限定の意義を有するを以て、単なる判断的一般者の限定と考へられるものの底にも深い生命の流れが潜んで居ると考へ得るのである。」

 西田は「表現」という言葉を広い意味で使っています。客観的な存在が主観的な意味内容を宿していれば、広い意味で「表現」と考えることができるのです。例えば「言語」もそうです。言語は物理的音響であると共に、それだけでなく我々の思想の表現です。ですから記号的な存在はすべて表現に含まれます。単なる符号から芸術作品まで入りますし、社会の風俗、習慣、制度も広い意味での表現に含まれるのです。
 客観的な存在が意味を持つのは、外界を自己実現の場所とみなし、外を内と見る行為的自己の立場に立っているからです。人間は自己の身体を自己表現の道具と考えます。女性は美しく見せようとして、スリム志向にはしり、ダイエットで体を壊したりしますが、病弱で神経質に見えるよりは、健康的な太り目の方が魅力的だという人もいますね。最近は茶髪にしたがる女子高生が増えて、学校が管理しきれなくなっていますが、自己表現の手段としてやってるわけですから、管理しようとするとかえって自由を抑圧されたと反発するわけです。
 女子高生は管理教育に反発して、校則を逆用して自己表現しています。ルーズ・ソックスはダサダサです。白い靴下を強制されたことを逆手にとって、それをダブダブシワシワにしてはくのです。大人の目からは大変かっこ悪いので、注意したくなりますね。でもピシッとした靴下を強制されてはくよりは、型に嵌められない自由な精神を表現していて、「カワイ」くて「カッコイイ」という主張なのです。身体から服装という外的事物に自己表現の範囲が拡大しているのです。
 服装は半分ぐらい身体の一部と見なされますから、着こなしによって自己の個性をアピールします。普段オシャレには縁遠かった芋娘が、成人式の記念に振袖姿に変身して、まぶしい程に艶やかになることもあるのです。若者はマイカーに情熱を燃やしますね。乗り回しているマイカーが豪華だと、リッチな生活に憧れているOLたちが同乗させて欲しがるようです。でも車のローンで貯金ゼロなんて若者が多いんです。ともかく表現しているものが夢のような幻想かもしれないけれど、車とか家とか家具とか校舎とかの外的事物が人間生活の様々な面を表現していると言えます。
 かえって身体的な個人の外見に囚われていたのでは、その人の本領は分かりません。その人がどんな働きをし、どんな仕事を残したかは、業績としてその人の事業や造った物の中にこそあるのです。例えば大工さんは建てた家、寿司屋さんは握った寿司の中にその人がいるわけです。現代は個人的な職人の時代ではありません。企業の時代です。企業がどんな事業をなし遂げたかが、その企業の中身になっているのです。近代日本がどんな国家であったかも、大日本帝国の富国強兵による近代化と侵略の歩み、戦後の高度経済成長とハイテク技術革新の歩みなどを通して知られるのです。決して個人的な心情や神話などによって認識できるわけではありません。
 企業や国家を自己表現の主体と見なしてよいのか疑問の方もおられるでしょうが、立派に組織的に意志決定を行っていて行為的自己として存在しているのです。国家を人間として捉えた古典的名著はホッブズの『リヴァイアサン』です。リヴァイアサンは『バイブル』に出てくる地上最強の怪物ですが、ホッブズは国家をそのリヴァイアサンだとしているのです。怪物と言いますと中生代の恐竜を連想されそうですが、ホッブズはジャイアントとして描いているのです。国家を巨大な人工機械人間だとしています。ホッブズに言わせると身体的な諸個人だけが人間ではないのです。ホッブズの捉え方でいくと、企業も人間と考えていいですね。企業や国家も人格的存在として人間なのです。これは常識的な人間観念からみて納得できないかもしれませんが、現実には企業や国家は法的人格として通用しているわけです。
 西田は『無の自覚的限定』で次のように述べています。「主観の客観化的方向を徹底して、主観が客観の中に没入した時、客観的存在そのものが自己自身の内容を表現すると考へられるのである。ヘーゲルの客観的精神といふ如きものも斯くして考へ得ると思ふ。」ヘーゲルの客観的精神というのは、法や人倫(家族・市民社会・国家)や世界史を含んでいます。
 企業や国家も含めて行為的自己として人間的存在を理解し、その中で人格的な個人がどのように自己実現を図っていくかが問われているのです。詳しくは『フェティシズム論のブティック』(石塚正英との共著、論創社刊)を参照願います。ともかく客観的世界を自己表現の場として捉え、客観的な世界や事物による自己表現を通して自己実現を図っていこうという西田の構えは、フェティシズム論の観点からも興味深い構えです。

次へ/前へ/目次へ/ホームへ