判断的一般者と自覚的一般者

 ドレスや乗用車など社会的な事物が表現的一般者の現れであることは当然ですが、五月雨や夾竹桃など自然的な事物も、やはり表現的一般者に含まれるのでしょうか。例えば夜空に輝く光の点を星と名づけていますね。これも自然的事物であり、「あの光る点は星である」という判断です。星は判断的一般者に含まれるわけです。星は全くの自然科学的存在で行為的自己とは無関係だと思われますか?夜空の星は、互いに位置関係が定まっていますから、そのことによって方角を知らせてくれます。また星座を構成するものと解釈されますと、星占いに利用されたりします。その他夜空の星は心を和ませてくれる役目も果たします。そういう効用があるので、単なる光る点以上に星として認識され、いろんな意味づけが与えられてきたわけです。ですから元々行為的連関にあったのです。
 自然科学的な知識も直接・間接に人間の生活や生産に必要であり、文化を構成していますから、表現的一般者に含まれます。ただ表現的一般者からノエシス的な面つまり働きとしての面を捨象して、ノエマ的に対象的事物として捉える限定面だけ残しますと、それが判断的一般者である面だけが意識されるということです。諸事物の客観的な判断が、判断的一般者の自己限定なのです。
 判断的一般者の場合は、「AはBである」という形ですから、主語Aについて言表なのです。ですから主語Aに述語Bという規定性が含まれていることになります。そこで判断的一般者では事物間の関係が語られていますから、「有の場所」に現れているのです。ところで「AはBである」という判断も、ノエシス的には意識ですから、一般者Bが特殊者Aとして自己を表現するはたらきなのです。このような一般者の自己を限定して生み出す働きの面を自覚的一般者と呼ぶのです。特殊である主語Aは、普遍である述語Bの現れであるという判断です。
 「立命館大学は大学である」という表現があるとします。「立命館大学」は普遍・特殊・個別で言えば、個別ですが、この文章では「特殊」を代表するものとして扱います。この表現は同義反復を含んでいるようにみえますね。でも「老人大学は大学である」とは言えません。述語Bが自己限定して主語Aになったということは、主語Aは外的な事物として見なされているけれど、実は述語Bの自己限定だとされることで、意識に包摂されているわけです。「大学」という普遍な意識が自己限定して、特殊「立命館大」として意識されているわけです。しかし「大学」の理念が一般教養と専門的知識を養う場であるとしますと、中学生の作文レベルの文章しか卒業論文に書けない学生にとっては、「大学」としては機能しなかったことになります。そこで「立命館大学は大学である」であると言う資格がある学生が、どれだけいるのか問題ですね。ですから「立命館大学は大学である」という文章は、「大学」についての意識に包摂されているのです。
 「立命館大学は大学である」という判断は、個々人の意識がします。でも「大学」が「立命館大学」に自己を限定する働きを、個々人の主観の働きのようにだけ解釈してはいけないのです。判断的一般者の場合でも「立命館大学は大学である」という判断は、「立命館大学」という物が示しているわけです。この「立命館大学」の判断を、各学生諸君の主観は、それぞれの経験を通して分かち合っていると言えます。「立命館大学」が「大学」に見える人もいれば、とても「大学」には見えない人もいるかもしれません。
 しかし同じような条件では、同じような立場の人には同じように見えます。立命館大学は今では、日本中の私立大学の中でも代表的な大学だと評価されています。私は予備校や高校に関係してきましたから、立命館大学の相対的位置というのがこの数十年の内にかなり上昇しているのを知っています。予備校や高校の関係者には共通の判断が成り立っているのです。共通の判断ができないと相互理解や対話は一切成り立ちません。共通の判断が成り立ちますと、個人的意識だという面を捨象できますから、物に即した「立命館大学が大学である」という判断が行えるのです。つまり立命館大学自身が立命館大学は立派な大学だと自分を示していると言えるのです。
 『善の研究』の「序」で「個人があつて経験があるにあらず、経験あつて個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができ」たと語ったのも、西田が経験を実在として、世界の現れ、一般者の現れとして捉えていたからなのです。普遍Bが特殊Aとして自己を限定する意識のノエシスの面つまり働きの面も、自覚的一般者の自己限定なのです。大学が立命館大学として自己を示す、大学自身の意識の働きが、自己に自己を示す自覚的一般者の自己限定だというのです。ですから個々人の主観的な意識が、勝手に普遍B「大学」を特殊A「立命館大学」に限定するのではありません。経験によって個々人は、自覚的一般者の働きをしているわけです。立命館大学を経験している大学人の1人1人が、それぞれの大学での生活体験を通して、大学とは何かを自分自身に示しているわけです。大学というのも世界であり、一般者です。だから、世界や一般者は我々個々人を離れて別に有るわけではありません。
 「大学というのも世界であり、一般者です」という表現が飲み込めないようですね。世界の経験は何もかも一遍にできるわけではありません。世界は様々な様相や事態として体験されます。海や空を見て世界の広さを実感するだけが「世界」ではないのです。インターネット上に表示される少年Aの写真情報も「世界」です。世界とは「大学」も含め、そういう世界の断片の一つ一つとして体験されるのです。「一般者」もそうですね。「大学」という一般者は「総合大学」や「短期大学」「単科大学」という特殊として体験されますし、具体的には「立命館大学」「同志社大学」という個別として体験されます。
 自覚的一般者においては「A(立命館大学)はB(大学)である」という意識は、特殊A(立命館大学)が普遍B(大学)自身の現れであることを普遍(大学)が認めるはたらきであるわけですから、述語に即した、概念に即した意識であるわけです。こうして概念に即して捉えれば、事物A(立命館大学)は概念B(大学)の特殊として概念化され「意識の野」にあることになります。そして判断的一般者と自覚的一般者は、同じ意識のノエマ面とノエシス面ですから、それらを包む表現的一般者の二面なのです。
 ということは表現的一般者も個々人の意識に矮小化して捉えてはいけないということです。自己を表現しようとする主体つまり行為的自己は、我々1人1人であって、1人1人ではないのです。我々一人一人の意識としてそれは意識され、行為され、表現されながらも、それは一般者の意識であり、行為であり、表現なのです。つまり世界が我々1人1人の経験として立ち現れ、活動しているのです。表現的一般者から自覚的一般者の面を捨象した判断的一般者の面だけ捉え、世界を客観的な事物同志の関係としてだけ捉えていますと、世界は自分の命とは無関係なものにしか見えなくなってきます。でも月も星も花もみんな、我々が生きているから意識されるわけです。つまり大いなる命の表現であるから意識に現れるのです。そして個々人とその意識も大いなる命が、自己自身を自己自身に示すために存在しているわけです。個々人と大いなる命にはそういう根源的な一体性があると西田は確信しています。それがなければ哲学なんて成り立たないと考えたのです。だから「単なる判断的一般者の限定と考へられるものの底にも深い生命の流れが潜んで居ると考え得るのである。」としたのです。
 例えば道を歩いていて石ころにけつまずきそうになって、その石ころに腹を立てることがありますね。怒ってその石ころを蹴飛ばしたりします。まさかその石ころを自己自身とは思えません。でも石ころにけつまずいてころんで打ち所が悪くて死んじゃうこともあるんです。まさしく運命の石です。その人の生の締め括りの石なのです。けつまずいたり、ころんだりして人生を歩んでいるじゃないですか、だから石ころだって我々の生を構成している要素なんです。まして世界に生きている人類や生きとし生けるものたち、太陽や空気や水や土なども、みんな我々の生命だと言えるのじゃないでしょうか。与謝野鉄幹は、「石を抱きて野に歌ふ芭蕉のさびを喜ばず」と青春を謳歌しましたが、野の石にも人生を写すことができる芭蕉の感性にこそ、豊かな生が感じられます。

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