自己中おばさんと守銭奴床屋

>先程の自己中おばさんや今度の守銭奴の床屋さんというのは、かなりひどいかもしれないけれどどこにでもいる普通の人々ですよね。そういう人々も人格を持って生きているわけで、そういう人々を排除した議論になっています。何も哲学者だけが非連続の連続で絶対無に触れてリフレッシュできているわけではないでしょう。先生と坊さんと議員さんの人格は立派かもしれないけれど、人格を持って生きているという点ではみんな変わりないわけでしょう。幾多郎さんの仰っているのは理想的人格のようなもので、高尚すぎて庶民には無縁に響くのじゃないでしょうか。
幾多郎>それは誤解です。哲学者が高尚なんてのは大嘘です。饅頭の食い過ぎや煙草の吸いすぎは体に悪いと分かっていても、つい浅ましくも手が出てしまいます。客が来て茶菓子が出ていると、つい知らない間に客の分まで食べてしまう始末です。私はそういうことで自己嫌悪に陥るいじけた人間なのです。自己中おばさんは堂々と自分のやりたいようにやりゃなけゃ気が済まない、大した器量です。徹底した儲け主義の床屋さんも、合理主義を貫徹している点では尊敬に値します。それに床屋になるとかは職業選択の問題で、生き方の問題ではありません。現在において瞬間的限定の底から自己自身を限定して絶対無に触れるということと直接関連するわけではないのです。哲学者でも議論だけで絶対無に触れたつもりになって、実際には自己中爺さんの人もいるし、守銭奴学者もいるわけです。
>自愛とか他愛とかという愛の問題は、その人の生き方以前に感情の方向としてだれにもあることです。絶対無に触れるというのは生き方の問題で、永遠の今に生きるような真の個物的限定をしないと体験できないのでしょう。ところが一方で西田哲学は存在論ですから、全ての人が根源的には絶対無に接しているし、個物的限定をして、永遠の今を生きているということになるんじゃないですか。
幾多郎>琴さん、あなたは私なんかより哲学者に向いているんじゃないですか。お上手に整理なさる。私など問題が整理できなくなると時々堂々巡りになって、同じようなことばかり書いているんだけれど、ちっとも議論が進まないということがよくあるんですよ。すると西田の文章はどこから読んでも同じだなんて野次を飛ばされてしまう。
>あら私は訳が分からなくなって、ああ言っただけですよ。
幾多郎>ですから人格的存在として人間である以上だれもが死に接しています。ハイデッガーは「死の先駆的決意性」と名付けました。予め死を覚悟しているからこそ、生きているわけです。絶対に死なないなら、何も食べたり働いたり、議論したりする必要はないわけですから。死といういわば絶対無を抱えて、当面死なないためにどうすべきか、長く生きるためにどうすべきか、どうせ死ぬんだから今をどう生きるべきかという観点でそれこそ万人がどれだけ自覚的か無意識的か差はあるとしても、現在の瞬間を個物的に自己限定しているわけです。
 それは人間社会の中で自己を社会的に限定することです。職業選択もその意味では愛の自己限定に含まれます。何かの職業に就かないと生きられないわけで、生死の問題と繋がってますからね。職業に就くというのは明らかに生きるための自愛的行為です。生きるというのも自愛的ですよね。自愛があるから生きられるので、本当に自分がとことん嫌になったら死を選択してしまいます。

>さきほど職業選択と絶対無に触れるというのは関連しないと仰ったばかりですよ。
幾多郎>ええ確かに、何か閣僚の国会答弁のように一貫性がないと思われているようですね。私が言いたかったのは、寿司屋か床屋かの選択は生き方の問題とは直接関連しないということです。何かの職業に就くというのは生きるためですから、職業選択しないでブラブラするのと比較すると生きる事に前向きです。要するに社会で何らかの生きるための場所を得て活動するということは、必ず他者との交わりであり、他者への働きかけであり、他者にとって役立つことをしてあげる奉仕であるという面を持っています。その為に自分の時間を費やすわけで、何らかの自己犠牲、自己否定を伴っています。それでいてそれが社会の中で自己を見いだす行為ですから、他愛的な面を持っているのです。ですから他愛的な感情を自然と抱く筈なのです。ところが自己中心主義で自分しか見ようとしない、自分にしか関心がない、あるいはお金に還元してしか物事を捉えられないとなると、他愛的な感情が薄れてしまいます。
>社会的な自己限定がきちんとできていないわけですね。でもそういう人でも社会で活動して生きようとしているかぎり、絶対無に触れていることになるのでしょう。
幾多郎>ええ誰しも絶対無に触れているという意味ではね。でもその事を忘れているんじゃないかということです。つまり絶対無に触れて、なにものにも囚われない自由な精神に帰れば、自己中や守銭奴的な生き方はできない筈だという生き方レベルでの批判です。
>あら、幾多郎さんは、自己中や守銭奴的な生き方こそ自由な生き方だと賛美されたんじゃないですか。
幾多郎>図太くて、器量が大きいとか合理的とかという賛辞を贈りましたが、全面的に肯定したわけではありません。その前に厳しく批判しておいた筈です。自分が孤立し破綻するような生き方、他者への思いやりを無くしてしまうような生き方は、私利私欲に囚われて本当の自分を見失った生き方なのです。絶対無に触れるということはそういう私利私欲へのこだわりも含めて、全ての固定観念やしがらみから解き放たれることです。その意味で自己中や守銭奴的な生き方をする人は絶対無にきちんと向き合っていなかったということですね。でも欲望や歪んだ自尊心から本来の自己を見失って、軌道を踏み外し、悪に染まるというのは、多かれ少なかれ誰にもあることです。

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