個人的限定と社会的限定

>売春婦に向かって石を投げる人達に、イエス様は「心にやましいところの無い人だけが石を投げなさい」と諭されました。そうすると誰も石を投げることはできなかったと福音書にあります。だれもが罪から逃れることが出来ないとしたら、救済は人類の罪を自らの血で贖われたイエス・キリストへの信仰に頼るしかないのではないでしょうか。
幾多郎>悪というのは根本的には自らの個物性を破壊しようという意志なんです。精神分析学者のフロイトは、人間の根源的な衝動に生への衝動エロスと死への破壊的衝動タナトスを挙げました。
>アガペー(神の愛)によって創造された大切な命を感謝して、喜んで生きるのではなく、生きることの様々な苦しみから逃れて、人生から逃避しようとする気持ちですね。でもこの死への衝動を否定するのだったら、生の方向に行くのですから、死して生きるということにはならないのじゃないですか。
幾多郎>いや単独者としての個物は、自分自身では動きませんし、他から動かされることもありません。個物が動く物になるためには、個物は自己自身を破壊しなければならないんです。こうして個物は死することになりますが、死することによって自己を見いだすのが愛ですから、破壊された個物はそこで絶対的な神の愛に包まれて甦り、先程の個物とのアイデンティティを見いだして、動く個物として生きるわけです。
>さっぱり分かりませんわ。神は根本悪によって自殺した個物をどうして救済されるのですか。
幾多郎>それは単独者として神から離れて突っ張っていた個物が、個物性を破壊して、神の懐に帰ってきたからでしよう。個物はアリストテレスのいうように主語になって、述語にならないものです。つまり一般者で規定しようとしても、それが完全な個物ならまだ何か規定できる筈なのです。でも個物性が破壊されたのですから、個物は一般者の現れとしてつまり具体的一般者として自己自身を限定します。
>つまり私は、完全な個物としたら無限の属性を持っていることになるけれど、実際にはこの世界で、様々な関係に縛られて生きなければならないので、イングリッシュ・プロフェッサーという一般者の具体的現れに自己を限定しているというわけですね。
幾多郎>ええ、そういう個物の自己限定という形でイングリッシュ・プロフェッサーという一般者は、自己を琴さんという人格に限定しているわけです。イングリッシュ・プロフェッサーという一般者は、琴さんに自己実現を図るのです。琴さんにわれこそはイングリッシュ・プロフェッサーのお手本だというところを見せてほしいと期待しているのです。そして琴さんの方は、個物であるということを殺して、つまり無限の可能性を無くしてまでも、自己をイングリッシュ・プロフェッサーという一般者に限定したんですから、当然イングリッシュ・プロフェッサーとはこういうものだというあるべき姿、当為を示さなければなりません。自己自身をイングリッシュ・プロフェッサーのイデアとして社会的に提示しようとするわけです。
>それでこれまで頑張ってきたんだけれど、ですから後ろ髪を引かれる思いはすごくあるんです。でも幾多郎さんに望まれたら、自分が真っ白になっちゃった気がして、これはもうイングリッシュ・プロフェッサーのスターの座を降りるしかなくなったんです。
幾多郎>個人は社会に於いて生まれますが、社会的になるということは、もはや個人が個人ではいられなくなり、個人としては死ぬということです。その逆に個人が個人として生きようとすると、社会を否定することになります。琴さんの場合は社会的限定を降りるということですね。でも今度は西田幾多郎夫人という限定を受けます。西田幾多郎は隠居の身にすぎないという意味では、社会的限定の色合いは薄いのですが、現代日本においては西田幾多郎夫人という限定は社会的限定の意味が大きいのが現状です。
(個物的限定の人格的意義だけでなく、個々の社会的諸事物としての個物の意義付けなどやすいゆたかにとっては、重大問題を問い詰めたかったが、西田哲学入門講座はこれで終わったわけではないから、長い夢から覚めて、いよいよ『哲学の根本問題』に向かうことにする。)

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