琴>先生、じゃなかった「幾多郎さん」の『善の研究』やっと読みましたわ。若い頃読みかけて、あんまり難しいものだから、ほっぽっていたんですけれど、この度の御縁で、お側に上がることになったものですから、ほんの少しでも幾多郎さんのお考えが知れたらと思って読み返してみましたの。
幾多郎>それはうれしいですね。どうです、ご理解いただけましたかな。
琴>前よりはずっとね。第二篇・第三篇を読んでから、第一篇を読むとわりと分かり易いですね。でもやっぱり難しいですわ。あるがままの経験を素直に活き活きと受け止めて、いつも生命を充実させて生きることが大切だということでしょう、御主旨は。
幾多郎>ええ、そうなんです。結局のところですね、言いたかったのはそれだけです。
琴>それにしても、その後の幾多郎さんの書かれたものは全く理解不能ですわ。読む相手が理解できなくても、哲学の場合は差し支えないのですか。
幾多郎>これは手厳しいお言葉ですね。私の場合は、自分の中に湧き出てくる思想をそのまま書きつけているだけで精一杯なんです。それを分かりやすくかみ砕いて説明するのは、私にも大変難しいですね。
琴>でもそれじゃあ折角、湧き出てきたお考えが正しく伝わらないで、いろいろ歪んで受け取られてしまいませんか、幾多郎さんのお考えと正反対のお考えが、これが西田先生の「純粋経験論」だとか「場所の論理」だとか言われて広められたりしたら、それを取り消して、ご自分の本当のお考えを打ち出される必要が出てくるでしょう。
幾多郎>実際、それで苦労しているんです。
琴>ところが幾多郎さんの御説明というのが、また皆さんには訳が分からないとなると、目も当てられませんわね。
幾多郎>実は、これまで何度も哲学者なんかもう止めたいと思いました。でもそういういろんな解釈の論争を通して、その時代が求めている哲学が、次第に分かりやすい形で姿を現してくることになるでしょう。それが西田幾多郎の言いたかったことかどうか、後世の哲学者たちがまた議論してくれたらいいんです。
琴>あら随分投げやりだこと。でもせめて私には、あなたの学説の中で何か私にとって大切なことをひとつでも納得させて下さらないかしら。そうすれば私は、あなたが学問に打ち込めるように、私の全てを捧げてあなたに尽くすことができる気がするんです。