幾多郎>では今ちょうどとりかかっている「自愛と他愛及び弁証法」という論文を、琴さんに分かるように説明しましょう。この論文は元々琴さんに捧げるつもりで取り組んでいるんですから。
琴>私たちの愛がテーマですのね、胸がドキドキしますわ。でもこの歳では気恥ずかしいですね。
幾多郎>いや全くチャラチャラしたところはありませんから、ご心配なく。ところで人は人を愛すると共に、物を愛するとも言いますね。
琴>ええ、宝石だとか呉服だとか、物にたいそう愛着をお持ちの方が多いようですね。でも私は物や財産には全く執着はありません。家族を愛し、学生たちを愛し、そしてこれからの人生はあなたとあなたの娘さんたちを愛して生きようと思っています。人を愛しているかぎり、人生に飽きが来るということはありませんもの。
幾多郎>なんとお優しい御言葉、胸に滲み通ります。そうです、物は欲求の対象とはなっても、愛の対象となることはできません。物を愛する人は物から自己の欲求を満足させてもらって、それを喜んでいるだけです。純なる愛とはね、琴さん、自己が自己を否定するところに喜びを得るものなのです。真の愛とは愛する者の為に自己を捧げて、そのことに自己の意義を見いだすことなのです。
琴>自己を見いだせるのなら、自己を否定していることにはならないのではないですか。
幾多郎>自己と他者は全く別々の主体だったわけです。私は私であり、あなたはあなたなのです。全く今まで係わりなく生きてきました。こうして真実の愛で結ばれますと、琴さんなしの幾多郎の人生は考えられません。琴さんも私と病んだ娘たちの為に、これからの人生を捧げて下さるとおっしゃる。それは今までの自己じゃなくなることですから、否定なのです。
琴>否定と言いますと、価値的に駄目なこととして退けるように受け止めていたものですから、そうしますと、変わる為にこれまでの自己じゃなくなるのも、価値的にプラス方向でも否定と言えるのですね。
幾多郎>いや、そういう意味じゃありません。否定であるということにはマイナスがあるわけです。琴さんは幾多郎との人生を選択されることによって、津田塾での多くの価値あるものを捨て去る決意をされたわけで、そこで犠牲やマイナスが生じています。そして私との人生を選択されなかったら、その時間を別の事に費やせたわけですから、そういうもう一人の自分の可能性も否定しているわけです。そしてそういう否定を介して得られるものに喜びを感じることができるのが真の愛なのです。
琴>さあ果たして喜びと素直に言えるでしょうか、私を待っているのはとても厳しい試練かもしれませんわ。だって幾多郎さんに家庭の心配をできるだけかけないで、哲学に没頭していただくのはとても大変なことだということは、よく承知しております。西田家にはそれなりの不幸や確執もあるでしょうしね。でも日本の学問を代表されている先生が、見すぼらしくて、すごく不幸な家庭生活を送ってらっしゃるということ、お聞きして、また実際この目で確かめて、とてもいたたまれない気持ちにかられたんです。不思議ですね、あれほど誇りにしていた津田塾教授のキャリアだって、ちっとも惜しくなくなったのですから。きっと先生の一途で純情なご性格にほだされたのですわ。
幾多郎>ギリシア人は理想や美に憧れ、それらを実現し、享受しようとします。イデアを求めて向上しようとする愛をエロスと呼んだのです。それに対して、キリスト教では分け隔てない、自己犠牲的な神の人間への愛をアガペーと呼びました。そのアガペーによって人の心にも神への愛と隣人への愛が生じます。これもアガペーの一部なんです。というより、アガペーすなわち神の愛は、人間の人間に対する愛として現れるのです。あなたは敬虔なクリスチャンでいらっしゃるから、よく御存知ですね。