働きとしての神

>クリスチャンと申しましても、ただ神を信じて、神の愛に感謝して生きているだけですわ。神学的な難しいことは全く分かりませんし、分かろうとも思いませんでしたの。「神は愛なり」と申しますね。西田哲学では、神がいて、人間を愛するのではなくて、愛する働きが神だということですか。
幾多郎>ええ、神は物のように対象として捉えられるわけではありませんから、意識の対象面であるノエマではないんです。むしろ産みだす働きとしての意識の作用面ノエシスにあたるわけです。『バイブル』の神は、超越神だと言われます。神は天地を創造された万物の創造主だから、このコスモス(宇宙)の外に超越していて、コスモスを支配されておられるという捉え方です。つまりノエマ的に理解しているんです。しかしそうしますと、自然には自然の法則的な働きがありますね。人間界には人間たちの働きがあります。超越している神だと、外からそれらにおせっかいをやくことになってしまいます。
>いろんな奇跡を起こされて救って下さるのですか?どうせ救ってくださるなら、平等にお願いしたいですね、何か恨みでもあるように、特定の家庭にこれでもか、これでもかというように不幸を与えられるのはどうかと思いますわ。
幾多郎>あなたに出会う日まで、それは私の実感でした。そこで神がコスモスに干渉するのは、神の創造が不完全だったことになりますね。もし神が完全なら、干渉の必要はないわけです。ということは神の愛を示されるのは、神の完全という概念に反することになります。
>ということは神は愛ではないのですか。
幾多郎>神を超越神だけに一面化して捉えたら、そういう矛盾が起こります。でもこうして高齢の私たちの間にも奇跡みたいに愛の花が咲き、鳥たちが天使のように囀っています。瞬間、瞬間に新たなコスモスが創造されているのです。それを生み出しているのは私たちの愛であり、私たちが愛し合うことで、神の愛は実現しているとは思われませんか。
>『善の研究』では、私たちの人間の純粋経験が神だとおっしゃっていましたね。幾多郎さんの中では、神と御自身が区別されておられない。自分自身を神だとされておられます。これほど神を冒涜されることはないんじゃないですか、とても恐ろしいことですわ。
幾多郎>哲学は真の実在としての神を埒外に置くことはできません。中世では教会の力が強くて、哲学は神学に遠慮して、神学の婢に甘んじていたこともありましたが。真の実在には、私たちも係わっている筈ですね。それは絶対確実な直接経験であるというのが、純粋経験論なのです。『バイブル』の「出エジプト記」にモーセが神の山ホレブ(シナイ山)で神の名を尋ねる場面がありますね。その時、神は何と名乗られましたか。
>「有りて有る者、有りて有る者というお方が、あなた方をエジプトの苦しみから連れだす為にわたしをお遣わしになった、と人々に告げなさい」とあったと記憶しています。
幾多郎>この「有りて有る者」というのは「エヘイエー」の訳なんです。古代ヘブライ語では、「ある」という動詞の半過去形を「エヘイエー」と言うそうです。そこでキリスト教神学では、神を「存在」として解釈するようになったのです。ですから私たち人間も「存在」としては神と合一しているのです。たとえ現実には主観と客観が分裂し、「大いなる命」としての神がずたずたにされて、世界が死んだ物体の関係として捉えられたり、身勝手な欲望の対象に貶められたりしても、その世界の底の底には真実在として神と人間は合一している筈なのです。神との合一を説くキリスト教の立場は、神秘主義と呼ばれ、長い伝統を持っています。確かに超越神論を強調する人達からは異端視されてきましたが。(夢の中では私=やすいゆたかは西田幾多郎になっていますから、西田の言葉はやすいの西田解釈であり、やすい自身の考えではないことは断るまでもないでしょう。)

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