人格的自由と真の個物

>私たちの愛が神の愛であり、神は愛だから、私たちの愛が世界を創造することになると言われましたね。そのお考えはとても志が高いお考えですが、ナルシシズムの極致のようにも受け取られかねませんね。ちょっとついて行けないという感じです。
幾多郎>おや、特別のことじゃないですよ。こうして二人の愛は、一つの愛の世界を作り上げているじゃないですか。実際、あなたが西田の家に入られたら、あなたの愛がわが家に明るい光をそそがれ、息子の外彦夫婦もわたしに気兼ねすることもなくなるでしょう。娘の静子も話相手ができて、気が休まるでしょう。それだけでも随分明るい世界になるじゃないですか。
>オホホホ、幾多郎さんが「世界」なんておっしゃるから、二人の愛が宇宙を創造するのかと思いましたわ。
幾多郎>何億光年の宇宙というのも天文学が考えだした世界です。人それぞれに違った生活空間があり、宇宙や世界と言っても実際には、人の数だけ違った姿をしているのです。ですから宗教的には神の愛として捉えられる一般者としての愛も、具体的に自己を限定して現れる時には、一人一人の愛が自己を限定する形をとって現れるのです。
>幾多郎さんが琴を慈しんで下さり、琴に愛の家庭を作る喜びを与えて下さるのも、やはり神が私を愛して下さっているということの現れなんですね。神に感謝しますわ。
幾多郎>琴さんは私をヨブの苦しみから救い出してくれました。これも神の愛の現れであるのです。あなたこそ私のお上さんです。(笑い)くどいようですが、私のような還暦を過ぎた老人の許に嫁がれるというのは、さぞかし清水の舞台から飛び降りるような決意をなさったのでしょうね。
>ええ、でも私はクリスチャンですから、神様が求められるところだったら、たとえ地の果てだって厭いませんわ。学校の寮に岩波さんに連れられてあなたがいらしたとき、見すぼらしい恰好で、少しはにかんでらっしゃる幾多郎さんのお姿が目に入ったとたん、私が何とかしてあげなければって、そういう思いが電気のように体内をはしったのです。それですぐに神様が求められているところが幾多郎さんのところだと直観的に分かったのです。西田哲学ではそういうの「直覚」と言うんでしょう。
幾多郎>これまでの大切な生活を全て捨てて、全く新しい世界へ飛び込んでいける、これは自由意志の力です。人格があるから自由意志が宿るのです。これは単なる事物や生物や獣にも真似のできないことです。自由意志があってはじめて自分を自分で限定できるのですから。自分が自分を限定できることによって、他者や他の事物から自己をきちんと区別して捉えることができるのです。その意味で人格的な自己こそ真の個物だと言うことができるのです。
>個物と言えば、個物を実体だと捉えたのはアリストテレスでしたね。彼の場合、個物の典型はたしかエイドス(形相)とヒュレー(質料)から成り立つ個々の事物でしたね。普通なら人間は人格を持っているからただの個物ではないと捉えるのじゃないかしら。
幾多郎>単独者という意味での個物は、他から限定されないのです。普通の事物は個物としては様々に他から限定されるでしょう。また単独者は他に依存していませんから、他の個物を限定することもないのです。そういう意味で真の個物とは言えるのは人格だけです。
>人格だって人間関係や環境に随分左右されますわ。「孟母三遷の教え」という言葉があって、子供を立派に育てるために孟子の母は、住居を三度も変えたというじゃありませんか。それに「井の中の蛙大海を知らず」とも言いますわ。子供が問題を起こしますとすぐ、「親の顔が見たい」なんて言うでしょう。遺伝や親の躾けで子供の人格は、大いに左右されるものです。
幾多郎>確かにそうです。そういうことに異論はありません。私が言いたいのは、自由意志による決定です。どんなに困難な事情があれ、いや事情が困難であればあるだけ、自由意志はそれに逆らってでも自己を決定します。何ものにも囚われない精神で自己を貫くところに人格があるのです。

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