マルクスボーイと人格的自由

>耳学問ですが、キルケゴールが単独者の実存の立場を強調したとうかがったことがあります。罪を背負ったまま、神の御前にただ一人立つ単独者の実存ですね。
幾多郎>そうなんです。悪に染まり、罪を犯すのも覚悟の上なんです。自由意志を貫くためには、神の掟にも逆らい、親に逢えば親を殺し、師に逢えば師を殺さなければならないかもしれません。無門慧開の『無門関』(岩波文庫)という禅書にそういう思想が書かれているんです。本当に殺せというのではなくて、全ての既成の考えや、決まりや体制に囚われないで、生きないかぎり仏法は悟れないということです。本当に人格的な自由というものがあり、自由意志によって生きるということなら、正義を貫くために監獄や軍隊を恐れていては何もできません。
>あら幾多郎さんまで主義者のような事をおっしゃって、そういえば先生のお弟子さんにはマルクスボーイがおられるとか聞きましたわ。
幾多郎>マルクスボーイもいれば、近衛文麿のような将来の首相候補もいます。マルクス主義者たちはむしろ、経済的な生産力や生産関係に人間の観念形態は限定されてしまっていると説く決定論の立場に立っています。自由意志とか人格の自立の立場を見失っています。だから彼等が起こす革命で出来る権力は、人間の人格的自由を容認するとは思えませんね。

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