自愛と他愛

>なるほどそこまで説明してもらうと分かってきます。常に現在において一人一人が人格的な個人として、全ての行きがかりやしがらみや固定観念に囚われずに、絶対無に接することで、全くの白紙に返して、ヨルダン川で洗礼を受けるような気持ちで、自分の生き方、考え方を吟味して、自分の生を常にリフレッシュする生き方を説いておられるわけですね。つまり惰性で生きていたら、ついつい機械的になってしまって、命の通った生き方ができなくなり、物事にも柔軟に対応できなくなって、自分の力が出せなくなってしまうということでしょう。それに状況や関係に流されて、自分の責任で決定することがなくなってしまうと、自分の人生を自分で生きているという充実感も無くなってしまいますね。
幾多郎>要するに自分を大切しよう、自分を愛そうという呼びかけです。非連続の連続として各点、各瞬間の各自己を貫く同一性が人格であり、この人格を愛するから自己自身を限定するのです。しかしこの自愛は絶対無に接して死に、そして常に現在に於いて生まれる、つまり自己を否定することによって真の自己を見いだす愛なのです。
>いつも自分のことしか関心がないなら、この自愛はたとえ自己を否定することがあっても他愛にはつながらないように思えますが。
幾多郎>ここに英語の辞書がありますね、もし使わなかったらいつまでも新品同様です。でも毎日使っているものだから、こんな風に糊が取れたり、ぶよぶよになって、手垢で汚れてしまっています。もし辞書に意識があって、自愛に生きていれば、人にできるだけ使って欲しくないと思うでしょうか。琴さんが辞書だったらどうですか?
>私は淋しがりやだから、いつも側に置いてもらって、しょっちゅう使って欲しいですね。ボロボロになるまで使い切って欲しいわ。だって私は辞書として役に立ってはじめて生きることができるんですもの。もし使われなければ死んでいるのと同じだわ。辞書が自分を愛しているのだったら、人から愛されたいと切実に願うでしょうね。
幾多郎>つまり辞書は人にラブコールしているわけです。だから自愛は他愛を含んでいるのです。 琴:でも自己中心主義で見栄っ張りで、平気で嘘をついたり、約束破ったり、お金をたっぷり持ってるくせに、できるだけ代金を払わずに済まそうとしたり、ちょっと気に入らないとすぐに罵倒したり、ひっぱたいたりする人もいますね。自分が幸福になるためだったら、人を不幸にするのは平気の平左って人、全く自愛だけって人いるでしょう。
幾多郎>いる、いる。でもそういう人が存在できたのは、そういうやり方で周囲の人達が恐れをなして、ある程度強引に通してこれたからです。普通なら皆に嫌われちゃって、相手にされなくなり、家庭も崩壊して、何もかも失ってしまいます。他人を疵つけ、踏みにじって生きていれば、当然相手からのしっぺ返しが来るものなのです。他愛を含まない自愛というのは、結局は自分を損なうだけで真の自愛ではありませんから、破綻せざるを得ないと思います。それにそういう人は、絶対無に接した自己否定、死して生きるということを体験していないと言わざるを得ません。本人は人の百倍もそういうこと体験したと強弁するでしょうが。
>私が津田塾で教授をしたり、日本を代表する哲学者西田幾多郎の夫人になったりするのも、私自身の可能性を試し、私なりの幸せを掴もうとするからで、やはり自愛として世間には写っているんでしょうね。私自身は、女学生の学力を伸ばし、お世話をして皆が幸せになって欲しいだけだし、幾多郎さんのお側でお世話が出来、御心を慰めることが出来たらと思っているだけなんですけれど。
幾多郎>だから自愛と他愛はもとより別のものではなくて、自愛は対象面つまりノエマ的な限定で、感情移入した英和辞典の場合は、英単語の意味を対象的に表示することです。他愛は働きの面つまりノエシス的な限定で、英和辞典の場合は使用者のボキャブラリィを豊かにしてあげるというサービスなのです。他愛の面は他人からは見えませんから、愛の自己限定は自愛の形の自己限定で捉えられるのです。それでよく他愛というのも結局は根底において自愛なんだと言われますが、その場合の自愛は、真の自愛ではなく、単なる欲求の満足を意味しているに過ぎないので、正しくありません。
>愛は感情ですから気持ちが入らないと起こりません。自己限定して床屋さんになったとします。床屋で生きていくんですから、床屋になるということは、愛の自己限定ということでしょう。でもその床屋さん確かに自愛はあるでしょうけれど、お客さんよりお金の方を愛していて、どんなに散髪の技術が優れていたって、お金の為に散髪しているんで、他愛にならないことってあるでしょう。
幾多郎>金もうけの為の床屋というのは、欲望の為に生きているわけですから、愛の自己限定の場合のような、真の自己否定を踏まえていないわけです。例えば、寿司屋で失敗したから床屋という場合、一見自己否定のようですが、自己否定によって真の自己を見いだせているわけではないのです。たしかに散髪の技術さえ優れていれば、床屋として営業的には成功するでしょうが、真の個物として自らの罪に目覚め、現在の瞬間において絶対の無に接して、死んで甦ったわけではないのです。だから本来の自分ではない様々な欲望やしがらみに取りつかれています。自分を見いだし、その自分を愛する本来の自愛もなければ、自愛による社会的限定による他愛にも達していないことになります。

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