西田は1930(昭和5)年に『一般者の自覚的体系』を、2年後『無の自覚的限定』を出版しました。その間の年、1931年の12月に山田琴と再婚しています。幾多郎は61歳、琴は47歳でした。琴は津田英学塾の教授です。学長を補佐して中心的に活躍していたのです。岩波書店の岩波茂雄の紹介でした。琴の幾多郎に対する第一印象は「きものをだらしなく着たお爺さん」だったそうです。孫の上田久の『続祖父西田幾多郎』(南窓社刊)によりますと、琴は「極めて几帳面で清潔好き」だったそうですから、高名な学者がなんと見すぼらしい恰好をしてと驚いたのでしょうね。それで私が何とかしなくっちゃあと思ったのでしょう。これがもしパリッとした洋服で身をやつした紳士で、いかにも高潔で立派な学者という感じでしたら、琴は自分の出る幕ではないと思ったかもしれません。
当時の西田家は病身の娘達を抱えた家庭で、主婦不在でしたから掃除や洗濯も行き届かない有り様でした。琴は、教授というキャリアを捨てて、主婦として献身的に尽くす為に西田家に輿入れしたわけです。才媛で教養が高かっただけに、日本を代表する哲学者である西田幾多郎の家庭を守るという役割に、充分生き甲斐を感じることができたようです。
西田にすれば妻に先立たれてから五年が過ぎ、長い不幸のトンネルからやっと脱け出して、訪れた幸福でした。西田は教養がある上に、謙虚で初々しさを残している琴にぞっこん惚れ込んだのです。長い巻紙に切々とまごころを訴えるラブレターを琴に書き送っています。残念ながらそれは残っていません。11月に結婚直前の気持をこう歌っています。
「年月日いきづき経来しわが心けふたぎり立つ君によれこそ
はしきやし君がみ胸にわが命長くもがなと思ふこの頃
かくてのみ直に逢はずばうば玉の夜の夢にぞつぎて見えこそ」
古文の苦手な諸君の為に解釈しておきましょう。
「長い年月を嘆いてため息ばかりついてきたわたしの心だけれど、今日はたぎり立つ思いにかられている、それは君のせいですよ。
いとしい君のみ胸を思い浮かべると、自分の命が長く続けばいいのにと思うこの頃です。
こうしているだけで直ぐに逢えないのなら、うば玉のように黒い夜の夢にでも思いを繋いで、君を見ることができればいいのに」
こういう歌などもラブレターに認められていて、きっとほだされたのでしょう。しょっちゅう逢っていれば、着物をだらしなく着た風采の上がらないお爺さんですから、余り燃え上がらなかったかもしれませんが、なかなか逢えなかったので手紙からの熱い文面で琴も酔ってしまったのです。琴もすでに47歳ですから、まさかこの歳になってこんなにも熱い恋歌を贈られるとは思っていなかったでしょう。
幾多郎は老いらくの恋で、年がいもなく春の喜びに色めき立っています。この喜びが彼の仕事にも大いにプラスに作用して、精力的に晩年の膨大な著作が書き上げられていったのです。恋は恋人の中に運命的な結びつきを感じて熱くなることです。そしてその出会いの刹那に、永遠の生きる喜びを感じ取ることが出来るのです。この時の為にこの世に生まれ、今までの時を過ごしてきたと思い、この思い出さえあれば、残りの人生のどんな寂しさや労苦にも耐えられると思うのです。まるで『マディソン郡の橋』みたいですね。西田の用語でいえば「永遠の今」です。
どうせ恋をするのなら、そこに自らの存在の意味を見いだせるような、「永遠の今」を感じられる恋をしてください。最近では高校生もラブホテルを常用しているようで、少し気が合っただけで、簡単に性的快感を得ようとします。「ああ気持ち良かった」だけでは相手の中に永遠なるものや自分の存在の意味を掴み取ることはとても不可能です。「プラトニックなラブ」というのは今や死語のようですが、互いにいとおしく思う気持ちを突き詰める中で、互いの存在が聖なる輝きを持つのです。その極点での結婚やセックスによって、愛の永遠性を具現するものとして子供を授かるのです。こうして2人の愛で子供を大切に育てようとすることになります。
西田にとってこの再婚は、家庭的な不幸の末に訪れた幸福でしたが、多くの病人を抱えたままでしたし、子供に先立たれるという不幸は彼の死の直前まで西田を襲いました。ともかく西田は、今この時を精一杯思索し、充実させて生きる以外にありませんでした。琴は西田の半身に成りきって、西田が思索に打ち込める事だけに心を砕いたのです。
西田は60歳を過ぎても青年のように恋する事ができたという事は、この今の瞬間に永遠を感じる感性を持続できたという事です。それは「物が来たって、我を照らす」ということでしょうか、自らを絶対無の場所に置くとき、尽きることのない泉のようにこんこんと思想が湧き出てくるのです。自らの意識が無に成りきるということは、意識は対象としての物に対立するのではなくて、「物となって考える」ことですから、決して西田個人が考えているのではなく、西田を通して世界が考えているのです。そうでないと普遍性のある思想は生まれませんし、真にオリジナリティのある思索はできません。死の一年前の田部隆次宛の手紙に次のように記しています。
「唯思想はいくらでも湧出する様におもはれ、これだけは書き残して置きたいとおもひ居ります」