古代ギリシアでは時は永遠に循環するものですが、ユダヤ教・キリスト教などでは時間は直線的に流れます。アダムとエバが神に背き罪に堕ちてから、終末・審判の日まで真っ直ぐ時が流れるのです。「メシア(ギリシア語でキリストつまり救世主)の時」は、いよいよ時が停止し、審判が行われる終末の時だということです。もちろん「歴史の終焉」です。審判後は楽園かゲヘナ(地獄谷)のいずれかですが、そこでは時が無くなっているのです。楽園やゲヘナでは進歩や変化はありませんから、過去や未来は意味をなさなくなってしまいます。
西田によると、神秘主義の思想家エックハルトは、「時の完了」にはなおもう一つの意味があるとしています。それは、時に於いて既に起こったものあるいはこれから起こるであろうものを、現在の一瞬に引き寄せることです。無限の過去や未来が現在の一瞬において消される事、それが「永遠の今」なのです。過去は過ぎ去ってもうないのですから、それは現在における記憶でしかありません。未来は未だ存在していません、現在が孕んでいる可能性が未来なのです。こうして現在は、過去・現在・未来を包んでいると言えます。
つまり現在の意識が現在である記憶を解釈して過去を描き出し、現在が示しているものによって来るべきものを予感することによって、未来という観念が生まれるわけです。これは現在の意識が現在の意識自身を限定することによって、過去と未来を限定することだと西田は説明しています。「限定する」という用語は、西田が好んで使っていますが、概念の内容を明確に限ることで、はっきり現れさせるような意味に使われます。