時間意識の成立

 何らかの意識表象である限り、例えばこの薔薇やこのコートである限り、それは一般者の現れとして、なんらかの物の表象ですから、自我ではないわけです。自我は、西田流に言いますと何者にも限定されずに限定するはたらきとして、ノエシス的な存在ですがノエマ的には無なんです。物としても意識としても無あり、「有の場所」や「意識の野」の底を破った「絶対無の場所」にあるわけです。仏教でいう無我の真理も、働きとしての我は無いわけではないのです。ただそれは縁起的な相互依存的な存在であり、それ自体で存在するわけではないという意味では空なのです。デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う・故に・我有り)」の「コギト(考える我)」も具体的に何を疑っているかではなく、疑っているという抽象的な働き自体から導き出されているのです。コギト自体も「考えている」事から存在していると分かるだけで、対象的に認識できるものではないのです。
 このような限定されない自己が意識としての自己を限定するとき、つまり自己の存在を感じる時に、薔薇にもコートにも、何ものにも囚われない、現に在るというだけの意識、つまり「現在」の意識になります。それは「絶対無の自覚のノエシス的限定」ですから、西田は「自由なる人」だと言います。「自由なる人といふのは自己自身の中に時を包む円環的限定」なのです。時を包むというのは現在の意識の中に過去や未来が包まれているということです。現在の意識は意識の底を破った「絶対無の場所」にあるわけですが、それでは意識としては無ですので、有るということが意識できません。それでは「現に在る」という現在の意識とは言えません。それで具体的な一般者の現れの「意識の野」での意識を限定することになります。様々な意識表象として薔薇やコートとして、現在の意識は現れることになります。
 ところで様々な意識表象というのはそれがありありと思い浮かべられるものとしては、人間の意識の場合は、対象的な事物の意識になるわけです。これは「有の場所」の意識ですが、そこでは諸事物は意識から客観的に自立して関係し合い、作用し合っています。そこで天体特に太陽の位置変化や月の満ち欠けを基準にして、その間にどれだけ位置や状態が変化したかが捉えられる時、暦が作られ、客観的な時間が意識されるわけです。そこではあたかも時は空間と共に事物の存在性格と見なされ、連続的に直線的に流れるように受け止められます。

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