「永遠の今」の自覚

 しかし客観的な時間、絶対的な時間というのは、西田に言わせれば「意識の野」からノエシス面を捨象して、ノエマ面だけを取り出して実体化した諸事物の展開する「有の場所」の一面に過ぎないのです。我々人間も身体としては「有の場所」に属していて、客観的な時間の中で生老病死等の苦しみを避けられないわけですが、人格的な存在として絶対無の自覚に立った時には、「意識の野」を超越して「永遠の今」を生きることができるというのです。とはいえこの超越は、自覚ですから、まず「意識の野」にあって意識の底を破る形をとります。それでどうしても何らかの具体的な時間空間的な限定の中で、自然的歴史的社会的な状況を背負う中で自覚するしかないのです。ですからそれぞれの人格の個別的な事情によって無数の「現在」の意識の中心が成立することになります。
 現在の意識にとって記憶は、外界の刺激による感覚表象に対応して意識に浮上します。それは絶対的な時間系列の中に位置づけられれば、過去を構成します。ですから記憶も現在の意識ですし、過去を構成する意識の働きも現在の意識です。その意味で過去は現在の意識が作り上げている事になります。つまり「過去」という現在なのです。未来も現在の意識が現在の孕んでいる可能性を素材に作り上げた「未来」という現在なのです。こうして過去は現在の由来を、未来は現在の方向性を語る現在に包まれたものです。こうして現在に過去や未来が収斂されてしまいますと、それは時間や歴史を抹消する現在として「永遠の今」の自覚につながります。
 「永遠の今」は宗教的なテーマですから、宗教に例をとりましょう。ユダヤ教ではメシアの時が終末の時となり、時がなくなるのでしたね。キリスト教でもそれは同じですが、『バイブル』の読み方次第で様々な「永遠の今」や「永遠の命」が読み取れます。イエスはトーラー(律法)の中で最も大切なものはと尋ねられて、「神への愛と隣人への愛、この2つの愛にすべてのトーラーと預言者がかかっている」と応答しました。2つの愛に生きることができれば、愛に生きることの充実感から人々は昨日のことを悔やんだり、明日のことを思い煩うこともなくなります。そうしますとトーラーを遵守することで死後の救済を得ようとする意識も解消するのです。
 トーラーを遵守すれば救済されるという教えによって、人々は救済されたいからトーラーを守ろうという意識になってしまいます。そうしますと行き倒れの人を助けたり、老人にバスの席を譲ろうとするのも、神に対する点数稼ぎになってしまいますから、あくまで自分の為です。これでは隣人愛とは言えません。そういう偽善は神を欺こうとする最大の罪悪ですから、神からすればゲヘナ(地獄谷)行きしかありません。ということは、トーラーを遵守しようとすることによってかえって、罪に堕ちることになります。むしろゲヘナ行きかも知れない明日のことは忘れ、今日を神への愛と隣人への愛に精一杯充実して生きれば、「永遠の今」が体験され、過去や未来は全て消え去ってしまうのです。
 「永遠の今」は「永遠の命」でもあります。「永遠の今」では過去も未来も無いのですから、永遠に現在として生きているわけです。またイエスの贖罪の十字架は、メシアの時として終末であるわけです。そこで全ての人類の罪は裁かれ、贖われたのですから、そのことを信仰する人々は救済されたのです。イエスの贖罪の十字架の後で生まれた人も、罪を犯し、イエスの贖罪の十字架で贖われるとされるのです。ですからイエスの贖罪の十字架は、約2000年前の過去の出来事ではなく、常に現在なのです。

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