親鸞と日蓮における「永遠の今」

 仏教でも、親鸞は晩年に「自然法爾」の境地を語りました。これは自ずから法に包まれているという境地です。親鸞は絶対他力信仰でしたから、死後阿弥陀仏が極楽浄土に救い取ってくれると信仰していました。しかし誰も浄土に行って、戻って来た者はいません。ひょっとしたら阿弥陀仏も西方浄土も願望が生んだ幻想かもしれません。でもたとえ法然上人に騙されているとしても、後悔すまいと開き直っていたのです。それは法然上人の教えに従って、「南無阿弥陀仏」と唱えていれば、自ずから法に包まれて御仏に抱かれているような境地になれたからなのです。つまり現在においてこの穢土の中で浄土を体験できているのですから、将来のことを心配するのはおかしい話です。というより、御仏に抱かれているような境地になれば、過去のことを悔やんだり、将来を思い悩むことは一切ないのです。過去も未来も消去されています。まさしく「永遠の今」ですね。
日蓮は『観心本尊抄』で次のように説きました。
「今本時の娑婆世界は三災を離れ四刧(しこう)を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず,未来にも生ぜず、所化(しょけ)以て同体なり、此れ即ち己心の三千具足、三種の世間なり。」
 今この時の現存在が永遠の浄土なんです。過去も未来もこの己の身体,己の心の中にあって,釈迦如来は「永遠の今」に常に住われているのです。それを死後の阿弥陀浄土に求めるのは間違いだというのです。『華厳経』や『大日経』も法身仏の永遠の世界を説いていますが、日蓮によればではどうすれば己が身と心が法身仏と一体であるかを悟る、成仏の論理が欠けているのです。つまり成仏の種が蒔かれ、成仏の期が熟して、ついに種を脱してさとりを開く「種・熟・脱」の論理です。それは大昔に大通智勝仏によって種が蒔かれ,その後の多くの仏や釈迦が説法して次第に期が熟し,とうとう『法華経』本門寿量品でさとりに達したとされるのです。
 でも末法の衆生には「種・熟・脱」が一気に行われなければなりません。それを日蓮は題目を唱えることで達せられるとしたのです。「南無妙法蓮華経」と唱えることで,今この時の現存在のおいて身も心も久遠の釈迦と一つのものとなるというわけです。
 「永遠の今」を真理と一体になって充実した慈悲の実践に生きようとする精神は感銘的ですが、それが表に現れると、「破邪顕正」の為の他宗攻撃の形をとりますので、独善的だと顰蹙をかいやすいのです。他宗からすれば「南無妙法蓮華経」を何万遍も繰り返えせば御利益があるとするのは、言葉と真理を混同した言霊(ことだま)信仰だということになるでしょう。
 宗教的な「永遠の今」に共通するのは、自我の没却です。キリスト教の場合は、イエスの贖罪の十字架によって罪に目覚めて、今までの自己は死にイエスが我にあって生きるわけです。浄土教でも南無阿弥陀仏の称号の中でただ有るのは阿弥陀仏の救いであって、そこには自我が没却されているのです。「南無妙法蓮華経」の唱題も何万遍も繰り返えす内に、『法華経』から距離を置いて、その中身を冷静に吟味しようという姿勢はなくなっています。そのように自己一身の理性を捨て去ったところに真理が現れると思い込んでいるのです。
 たしかに自己一身の利害や雑念に惑わされていますと、過去が悔やまれ、未来を思い煩うことになり、とても「永遠の今」の境地にはなれません。動物の場合は、主・客未分化ですから常に現在だけで、その意味では「永遠の今」です。でも魂のカタルシス(浄化)は得られません。煩悩地獄で苦しみ抜いた末に、自我へのこだわりを棄て切った絶対無の境地に至って、はじめて世界との対立が融解して、世界がそのまま自由な自己であると感じられるのです。絶対無の自覚的限定によって「永遠の今」を体得できるとする西田の立場は、キリスト教や仏教の共通面を浮かび上がらせる普遍性を持っているのです。

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