歴史的実践の中で自己の歴史的使命を果たすことで、歴史に永遠に生き続けようという立場も、「永遠の今」を志向していると言えるでしょう。革命的実践に身を捧げようとした人々も、自己を歴史の理念や人民の戦いと一体化させていますから、自己を絶対無の境位に置き、歴史の理念や人民の戦いそのものに成り切る必要があるのです。それが出来たときに、普遍の理念として「永遠の今」となり、常に人民の戦いを照らすもので有りつづけると言われるのです。
「歴史的実践」を語るとき、イエスは見過ごすわけにいきません。イエスは紀元前と紀元後に世界史を二分するような歴史的実践をしたと、後のキリスト教会から評価されています。彼は「永遠の命」のイデアを自らが「命のパン」となって、身を捧げることによって体現したのです。人間は自ら他の生き物を食べて命をいただくだけで、自らの命を「大いなる命」の循環の中に投げ出し、永遠の命として生きることを忘れています。イエスは自分の体を食べさせ、血を飲ませて、弟子たちに永遠の命を教えたのです。イエスが永遠の命に戻ったのですから、我々の日々の食事や生産・消費の実践においても、この「永遠の命」が現れている筈です。その意味で、パンとワインによる「イエスの聖餐」は「永遠の今」の自己限定なのです。
「イエスの肉と血による聖餐」でイエスの個性が弟子の体内で弟子の個性を圧倒したので、聖餐した弟子たちが互いに相手をイエスと混同して、復活のイエスを体験したのではないかというのが、私の「聖餐による復活」仮説です。「最後の晩餐」でパンをイエスの肉であり、ワインをイエスの血だとしたのは、翌日の十字架の後で行われるべき本当の命の食事の為の予行演習に過ぎなかったと推察されます。このような解釈はまだ仮説の域を出ていませんが、私の精神分析では、イエスは自らを無にすることによって、究極の愛のイデアを見せたのです。
イエスは聖霊や悪霊という目に見えないものを、民衆に見せることによってメシア(救い主)による救いを信仰させようとしました。それで悪霊追放の演劇的なパフォーマンスを仕組んだと思われます。これも民衆にイデアを見せる例ですね。これが見事に成功してイエス教団が奇跡を見せる教団として民衆の歓呼を浴びたのです。この成功によって歴史はイエス中心に動き始めたのです。
悪霊追放劇にしてもイエスに対する聖餐にしても、現代人の目から見ればいかにもインチキ臭くて、オカルト的に見えるかもしれません。ですからそういうやり方を現在にそのまま適用することはナンセンスです。そういうパフォーマンスには「永遠の今」としての意義は無いように見えます。実際、福音書には弟子たちが悪霊役者だったということは伏せられてあるのです。またイエスに対する聖餐も、変形され「パンとワインの聖餐」に代替されています。
しかし悪霊追放劇は、民衆を「トーラーの呪い」から解放し、「メシアによる救い」を命懸けで示したものです。悪霊を目に見える形で示そうという発想は、極めて独創的でイエスの宗教的天才がいかんなく発揮されています。我々も現代において様々な人類的危機に直面しています。それを解決する方法を模索しているのです。その意味で、一見、子供騙しのような下らなく見える行為にこそ解決の鍵があるのかもしれません。ともかく民衆のために身を捧げ尽くそうとする行為としては、悪霊退散劇や聖餐による復活は、常に我々の現在の実践を照らしているのですから、「永遠の今」に当たるのです。
たとえ「パンとワインの聖餐」に代替されていても、イエスを食べるという行為の中にイエスが永遠の命として、大いなる生命の循環を体現している「永遠の命」の子であることが示されています。パンとワインを食べるということは、「大いなる生命の循環」に生きることであり、それこそ「永遠の今」として行為なのです。ところが現実のキリスト教会における聖餐は、教会における神父の秘蹟として行われますから、教会というイエスの体に取り込まれる行為にすぎません。教会では「永遠の命」であるイエスと合一するのは聖別された特別の「パン」と「ワイン」でしかないわけですから、かえって「大いなる生命の循環」から切り離されているのです。ですから「大いなる生命の循環」に生きることにはならないのです。