いよいよ後期西田哲学の代表的な著作である『哲学の根本問題(行為の世界)』(1933(昭和8)年)『哲学の根本問題続編(弁証法的世界)』(1934(昭和9)年)に入ります。両書は『西田幾多郎全集 第7巻』に一緒に収められています。まとめて『哲学の根本問題』と呼ぶことにしましょう。両書とも難解で通った西田のものとすれば、比較的読みやすい文章になっています。『善の研究』と読み比べてみますと、これが同じ哲学者のものかと疑うほど哲学的な内容も一変しているのが分かります。ただし純粋経験や場所、絶対無などについての説明や展開はほとんどありませんから、過去の学説をどの程度否定し、批判的に克服しているのか、あるいはどの程度継承しているのかは、読み比べただけでは分かりません。
『哲学の根本問題』というのは、「実在とは何か」という問題です。元々『善の研究』は、純粋経験を唯一実在として哲学を展開したものでした。それから西田は「絶対自由意志」や「場所」「絶対無」などを彼の哲学の立脚点に置きますが、その際それらを実在とみなしていたことは否定できません。
ところで『無の自覚的限定』では、一般者が一般者としての自己を限定して現れる時に、個物の自覚的限定の形を取ることを執拗に展開したのです。そこで真の個物は人格的個人であるとし、人格的な自己は現在が現在を限定し、瞬間が瞬間を限定する中で、個物としての自己が「永遠の今」である各瞬間において、「死んで生きる」んだとしました。こうして次の瞬間の自己に飛躍するのです。これを「非連続の連続」と呼ぶユニークな考えを打ち出しました。極めて個体主義的な、実存主義的にも思える展開をしたのです。
そして『無の自覚的限定』の最後の「私と汝」という論文では、真の個物としての人格相互の関係を、絶対の他を自己の中にみる関係として展開しています。『哲学の根本問題』はこの「私と汝」を強く引きずった内容になっています。
先月号で「自愛と他愛と弁証法」を取り上げましたが、琴との愛に極めて真摯に向き合っていることが分かりましたね。それが人格の相互関係を根本に置く、1つの基調としてあるわけです。しかも琴は敬虔なクリスチャンであったこともあり、絶対の他としての「汝」は、究極においては神の問題とも密接に繋がっていたのです。もちろんもっと背景には、長男や妻の死と娘たちの病気などという家庭的不幸の連続が、彼の精神を打ちのめし、常に生死の問題、人生の苦悩に向き合わせたのです。それによってまるでハムレットの「生きるか死ぬか、それが問題だ。(To be or not to be? It's a problem. ) 」の科白がぴったりだったのです。またこの科白が「有か無か、それが問題だ」をも意味しているわけでして、まさしく実在を問う「哲学の根本問題」だったのです。
「哲学の根本問題」は当時の思想界の重大論争でした。マルクス主義の台頭によって、実在を物質と考える唯物論をとるか、実在を観念や意識に還元する観念論をとるかで2大陣営に別れるとされたのです。この論争に在野ばかりではなく、西田のようなアカデミックな講壇哲学者でさえ巻き込まれる事になります。その意味で個物の相互限定とそれを媒介する歴史的社会的場所を実在と捉える西田の議論は、一見唯物論的な捉え方にも見えますが、果してどうでしょう。「私と汝」という人格的関係から人間論を展開するのもフォイエルバッハ的な人間学的唯物論に近いものを感じさせます。
『哲学の根本問題』につきましては1回の掲載で済ませたいと思いますから、直接本人に重要点を説明してもらう対談形式をとることにします。前回のように琴さんに聞いていただくと、つい脱線しがちですので、今回は私が西田の夢の中に入り込んで、西田と対談をしてきます。ええ?西田の夢の中に私が登場するのは理屈合わない。そうですね。じゃあ、私の夢の中で西田と対談することにしましょう。どうやって西田を夢に呼び出すかって、それは西田が出てくる夢を見ればいいんですよ。