やすい>個物が元来が規定されたものかどうかという問題と、人格を持った個人の自由意志の問題はいっしょにできないと思いますが、この問題は宿題ということでじっくり考えさせてもらいます。私が個物にこだわりますのは、西田哲学では物を歴史的社会的世界において、表現的に捉えているところが素晴らしいと思うからです。表現的ということは人間の身体を含めて、家畜や愛玩動物や穀物や鑑賞用の花や木々を含む自然環境にしても、自然科学的に解釈された宇宙やミクロの世界にしてもすべて人間の生命表現だということですね。人間の制作活動によって創造されたという意味で。
西田>人間自身が創造者である神の自己表現とも言えますが。
やすい>この時期に西田先生は琴さんの影響なのか、非常にキリスト教に接近しておられます。神概念も『善の研究』の純粋経験として捉えられた神とはかなり距離があるような気がします。それはさておき、私が関心があるのは、人間は人間の身体としてだけでは理解できないということです。たとえばビーバーを捕まえてきて、鋭い歯があるからそこからビーバーダムの制作者だとは分かりません。同様に人間の頭脳容量だけで人間の文化は説明できません。むしろ人間が産みだした文化によって、人間とは何かが語られるわけです。
西田>我々が表現的に自己自身を限定することが即ち物を造ることです。造られた物は逆に我々を表現的に限定し返します。だから我々の表現的な行動は、表現的世界の自己限定なのです。個物としての我々の自己限定が弁証法的一般者の自己限定でもあるのは、一般者としてのイデアによって物を造るからです。
やすい>ですから「弁証法的一般者としての世界」では「物が我であり、我が物であるといふ弁証法的自己同一の世界から、我々の行為といふものが考へられるのである」と述べられています。この表現はすごいと思うのです。だって西田哲学では表現された物の世界というのが人間の生命表現だというわけでしょう。これまでガラスのコップなら、ただのガラスのコップという物に過ぎなくて、ちり紙ならちり紙でしかないわけです。それが西田哲学では物が人間であり、人間が物だってことだから、物が人間を構成しているわけですね。そういう捉え方が好きなんです。
西田>ある意味でその通りですが、しかし物と我はあくまで違うからこそ、弁証法的自己同一なんです。この財布は物とすれば人間ではないけれど、表現された物とすれば人間を構成しているわけです。ノエマ的にはただの革の加工品だけど、ノエシス的にみれば財布はお金を所持する人間の行為を表現しているわけですから。
やすい>革を加工した物というのも、それまで自然にはなかった物を造りだしたのですから、人間活動を表現している物なわけです。だからノエマ的にも物は表現的世界に含まれ人間化していると言えるでしょう。
西田>それはそうですね。革の財布というのが流行すれば、それに限定されて革の財布を造らなければならなくなります。革の財布というのが一般者になるわけですから。とはいえ、財布が財布として限定されるのは、その使用者によってだから、自己限定する人格的個物とはきっちり区別しておかないと困まります。
やすい>革の財布を造るという自己限定は、表現的世界から限定されているわけです。つまり「物が我である」で、革の財布がそういう意識を産みだしたと言えます。物も表現的世界の中で再生産される為には、物についての意識も再生産させる必要があります。桜並木も、見事に花を開き花を散らせて、桜を愛でる意識を再生産できているから、保存されているわけです。もし少ししか咲かなくなったり、桜を愛でる意識が薄れたりしますと、他の木に取って代わられるでしょう。
西田>結局、物質が意識を規定するという唯物論の公式を確認したいのですか。
やすい>そうではなくて、人間概念の問題です。表現的世界全体を人間総体として捉え返してみたいんです。その中で意識が産みだされる構造を明確にできたらと思うのです。
西田>それは興味深い試みですが、限定されずに自己を限定する人格的な個物としての人間に、現在が現在を限定する、瞬間が瞬間を限定するつまり永遠の今において、「死して生きる」ような非連続の連続が成り立ち、それが絶対無に接しているんです。そのことを忘れて、真の個物とただの事物をいっしょくたにしたような人間論を展開するのはやめて下さい。
やすい>それは仰る通りなんですが、私は本居宣長のような「もののあはれ」「もののこころ」ですね、そういう世界も西田哲学の表現的世界の立場に学んで哲学したいのです。