西田哲学とキリスト教

やすい>そろそろ残りの紙数もなくなってきました。『哲学の根本問題』には「行為的直観」という用語が既に使われています。しかしこれは大きなテーマですから次回に回すことにして、最後にキリスト教について伺いたいと思います。さきほど少し触れましたが、『哲学の根本問題』ではキリスト教への関心が深くなっているのが感じられます。
西田>確かに『善の研究』の場合は、神は宇宙の統一原理であり、我々の純粋経験それ自体でして、人格的な超越神には懐疑的でした。それがやはり人生の深い苦悩を体験しまして、「人間から神に到る途はない」ことを思い知ったのです。人間が個物としての自己限定を窮めて普遍的なものに到達しようとしても、それはギリシア的な傲慢なのです。
 私が私の個人的な力で哲学を究めようとしても、悪戦苦闘のドッキュメントで途に迷うばかりです。私がなんとか子供のためによき父親であろうとしても、頑張れば頑張るほど反発されるだけでした。神が私の思索を通して真理を示されていると考えて、私を殺して絶対の無において神の言葉を聞いた時に、私自身の哲学が造られていた事に気づいたのです。親は子供を産みだすことは出来ても、子供の人格は親が造ることはできません。子供は自分で絶対の無と向き合うしか、自分の人格をつくれないのです。ですからこの点では人格において親子は対等なんだと気づいてはじめて、本当の父親に成れた気がします。しかしそう気づき始めた頃に長男は急病で死んでしまったのです。

やすい>個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定というのが弁証法的限定だと言われるのはそういう意味なのですね。つまり西田先生の哲学的営みは神の哲学的営みであり、神の哲学的営みにこそ西田先生の哲学的営みがあるということを悟って、西田先生が自己の中に絶対の他である神や世界を見いだし、それらによって自己が創造されていると知って、その創造に導かれ、その創造と一体となることを説かれているわけですね。そうしますと、禅における「仏にあえば仏を殺せ」というような絶対自由意志の傲慢は影を潜めていますね。それが西田哲学の到達点だとしたら、何か深い挫折を感じます。
西田>しかしそれは元々「絶対無」というものが抱えている二面性じゃないですか、絶対無からは、何者にも囚われないという意味では「絶対自由意志」が出てきますし、絶対の否定の肯定という信仰の立場も出てくるわけです。絶対の否定は絶対の他者である神の行為ですから、その肯定は信仰になります。晩年は確かに信仰の立場が強くなりましたね。
やすい>神による絶対の否定は、究極的には審判を意味しますね。「ヨハネ黙示録」に示されているような人類に対するホロコースト(大虐殺)という展開になっても、西田先生は肯定されますか。
西田>キリスト教的用語を使っていましても、私はキリスト教の教義やバイブルの記述を信仰しているわけでは決してありません。その点誤解の無いように願います。

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