やすい>『哲学の根本問題』で根本問題と言うと「実在」とは何かということでしたね?先生は何が実在だとされたのですか?
西田>私は当時は、真の自己は働く自己だと考えましたから、真の実在は行動的自己の対象だと主張しました。ところで真の行動とは人格的行動です。ですから客観的実在というのも人格的行動に対立するものなのです。それは相互に限定し合う諸人格です。そしてそういう諸個人の活動を限定している環境です。環境というのは物質ですね。この物質に諸個人は自己の活動を表現し、社会に自己の存在を知らしめるのです。
やすい>もちろん身体も含めて人格を捉えておられますね。
西田>身体のない人格はお化けですからね。感覚も欲望も身体の働きです。働く自己の自然的表現が身体だと言えるでしょう。 やすい:それじゃあフォイエルバッハの人間学的唯物論に近いですね。
西田>唯物論だと意識を物質に還元してしまいますが、人格的な意識は物質からは生じません。
やすい>それじゃあ物質に裏付けられないのに、どうして個物としての人格が実在だということになるのですか?
西田>デカルトは「我思う故に我有り」と言いますね。私は「我行う故に我有り」とも言えると思います。人格的行動を行っている限り、その行為の主体としての行為的自己も有るということです。その際、唯物論では人格的行動の基礎を物質的事情から説明できると考えますが、人格的自己というのは、外的事情によって決定されないものなんです。
やすい>マルクスは「存在は意識を決定する」という言葉で意識が物質的事情から産みだされることを指摘していますね。
西田>もちろん環境としての物質や自然がその中で活動する意識を限定しないというのではありません。しかし人格的な個物が個であり独立存在であるのは、環境や他の事物の一部ではないからです。意識を物質に還元してしまったり、個物を環境から説明しきったりしますと、もはや個物としての存在はなかったことになります。
やすい>つまり唯物論は個物の主体性を認めていないということですね。個物の主体性を認めなければ、人格の自由が成り立たないと言われるわけでしょう。
西田>そうなんです。しかし一方でそういう個物も他の個物がなくては存在できません。汝あっての私、私あっての汝なのです。互いに自己の中に絶対の他を見る弁証法的な関係です。しかもそういう私と汝は、感覚や欲望をもつ身体的存在として物質的に関係し合っています。しかも物質的な環境は、人間にとって栄養を提供する質料であり、生命を脅かす危険であり、自己を表現する媒体ですから、人間は社会関係や物質的環境によって何をどう考えなければならないかは強く限定されていると言えます。