やすい>『哲学の根本問題』では、実在としての人格的個人をただ経済的物質的に限定される物であるだけではなく、自己を限定する個物として捉え返されたわけです。そこではじめて人格的個人が、社会や経済や物質を逆に主体的に限定し返す行動の主体として規定できるとされています。そうすることによって行為的主体の哲学が展開できるとされました。マルクス主義の哲学者達が実践哲学を展開しているようでいて、結局は実践主体である諸個人を機械的に規定された単なる物理的運動の主体としてしか捉えきれていないと仰りたかったのでしょう。
西田>エンゲルスの『自然の弁証法』や『反デューリング論』などでも自然科学的な例証で弁証法が解説されているだけですから、人格的な個人がいかに生きるかという場合の主体的な弁証法というのが見えてこないんです。それに対してマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の冒頭に見られる実践的唯物論の立場は、私の目指す行為的主体の哲学に近いですね。
やすい>これも梯先生が口癖のように繰り返されていたのですが、「西田先生はエンゲル(エンゲルスのこと)は駄目だが、マルクスは良いと仰っていた」そうですね。ではその箇所を読んでみましょう。「従来のすべての唯物論の主要な欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとでのみ捉えられ、感性的な人間的活動、実践としては捉えられず、主体的に捉えられていないことである。」これを西田哲学流に言いますと、世界について意識のノエマ(対象面)が極大に捉えられて、客観的な事物の関係やありきたりの観念的規定性のままに受け取られているだけだから、従来の唯物論は駄目だったんだということになります。世界を意識のノエシス(作用面)においても捉え返すべきだということでしょう。つまり世界を人間自身の活動の姿であり、自分自身の実践の姿を示したものであるとして、主体的に捉え返さなければならないということですね。
西田>それから『フォイエルバッハ・テーゼ』の最終項目「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。肝心なことは世界を変革することである。」というフレーズも好きです。このフレーズを書いた時、マルクスは弾け飛んだと思いますね。既成のありきたりの言葉や観念でがんじがらめにされてきた世界認識が、マルクスの言葉でふっとんじゃった、それとともにそれまでの制約されていた哲学者マルクス自身も弾け散ったんです。そしてたった一人ででも、資本主義世界全体と堂々と対峙できる革命家マルクスが誕生したと思いますね。これが「死して生きる」ということ、「非連続の連続」ですよ。
やすい>凄い!西田先生。そのマルクス評価をわたしとの夢の対談ではなく、生前に文章で公表して欲しかったですね。
西田>不用意な発言はできませんよ。私がそんな爆弾発言をすれば、大学や哲学者全体に大変な国家権力からの圧力がかかりますからね。ただマルクスとマルクスの後継者はきちんと分けて論じていたつもりです。私自身も常に新たな論稿を発表する度に、瞬間が瞬間を限定し、死して生きていたんです。