やすい>「非連続の連続」つまり「死して生きる」の論理は、大日本帝国のように軍隊を大陸などに展開して、国威を発揚しようとする軍国主義国家では、国家の為に「死して生きる」論理として戦争に利用されることになります。先生は第二次世界大戦が日本にとって敗色濃厚な1945(昭和20)年6月に亡くなられたのですが、それまでに多くの青年学生が戦場に送り込まれ、無謀な作戦で尊い生命を落としています。特に学徒出陣で戦場に送り込まれた学生の中には、単身戦闘機で敵艦に体当たりする神風特別攻撃隊の特攻攻撃で散っていった者もいました。その際、西田哲学は戦争で華々しく「死して生きる」ことができる論理を彼等に与えてやったのです。当時のインテリ青年に大きな影響を与えた『哲学の根本問題』が、彼等の犬死を美化して、合理化したということはないでしょうか。
西田>私たちは欧米帝国主義によるアジア支配を終わらせ、大東亜が共栄できる大東亜協同体を建設することを目標に戦争をしてきたつもりだったのです。確かに欧米との戦力の差は歴然ですし、元々大陸に日本の軍隊を展開することが妥当だったか、もっと平和的に大東亜の協力体制を作り上げる方途はなかったか、疑問でした。我々京都学派は、この度の戦争には元々ネガティブ(否定的)でした。そして海軍のパイプを使って和平への動きを強めようと努力してきました。これ以上戦争での死者を徒に増やすべきではないと思ったのです。
このような和平への働きかけでも、露見すれば白色テロルに遭う危険性は大いにありました。西田哲学が戦争に利用されたという非難はもっともですが、でも和平への努力だって「死して生きる」覚悟が必要なのです。行為的主体の哲学である以上は戦争を推進するのにも、和平を推進するのにも、それが行為である限り「死して生きる」覚悟を必要とするわけです。
やすい>戦争で自国の敗色が濃厚になり、出征で死ぬ確率が高くなったとき、出征にあたっては死ぬことの覚悟が必要になります。出征しなくても空襲で死ぬかもしれませんからね。西田哲学は、国家社会が生きる為には個人が死ななければならないと説き、国家社会の為に死んでこそ、自己の生が輝くと教えたので、国民を戦争に動員する為の恰好の理由づけになったのではないでしょうか?
西田>個人と社会、個人と国家を有機的に捉えたり、弁証法的に捉えることが戦争に国民を動員することになるというのは、当たり前です。無政府主義者のように国家自体を無くそうというならともかく、あるいはレーニンのように戦争を利用して国内で革命を起こそうという考えならともかく、国家が戦争する時に国民は国家の為に死ねなくてはなりませんからね。戦争になった以上、国の為に死ねる哲学が、国民には必要なのです。そうした国民の期待にそえなければ、行為的主体の哲学は存在意義がありません。戦争になった以上、西田哲学も戦争に参加せざるを得ません。
やすい>戦争になったとき、自国の善悪が問えなかった、そこがやはり限界ですね。西田哲学では日本がアジアの国々を侵略して、沢山の無辜の人々を虐殺し、そして自国の多くの国民を犬死にさせる戦争を防げなかったのです。防げなかっただけでなく、そうした戦争犯罪に国民を動員した責任も、西田先生の死後二ヵ月で訪れた敗戦後、問われてきたわけです。
西田>近代日本の歩みが軍国主義的で、好戦的であったこと、そして侵略的であったことも反省すべきだと思います。西田哲学が戦争にあたって士気の高揚に役に立ったことは事実だったとしても、だから西田哲学に戦争責任があると言えるでしょうか。哲学が戦争を起こしたり、平和を実らせるのではありません。戦争犯罪についても、西田哲学が戦争での残虐行為や無謀な戦闘を産みだしたわけではありません。例えばドイツではハイデッガーが「死の先駆的決意性」を唱え、有限性の自覚の上で時代の課題を命懸けで主体化すべきだと説いたとしても、そのことでハイデッガーの哲学に戦争責任があるといえるでしょうか。死の決意や覚悟を説くことは、人命を軽視したり、戦争を煽ることでは決してありません。たとえその考えが戦争の際に大いに利用されたにしても、またハイデッガー自身が熱心なナチス党員だったとしても、ハイデッガーの「死の先駆的決意性」の思想それ自体は、深い真実を宿していることに変わりありません。
やすい>じゃあ西田哲学には戦争責任はないんですね。
西田>もちろんすでに隠居でしかなかったとしても、西田幾多郎個人の戦争責任を問われれば、認めざるを得ません。戦争を防ぐ努力も不十分だったと思います。それにアジアでの日本の侵略の実態をきちんと認識していませんでした。だから正義は我にありとある程度思っていました。また戦争に代わる平和の道を示す努力を精一杯したかどうか、結局戦争に青年たちを動員し、彼等の死を美化してしまう役回りしか演じることができなかったのです。だから、西田幾多郎の戦争責任は当然あります。ただし西田哲学それ自体に戦争責任を問うのは納得できません。