変わったものと変わらないもの

やすい>西田先生は、純粋経験→絶対自由意志→場所と絶対無というように実在に対する捉え方が変化しています。これも点から点へ「死して生きる」、「非連続の連続」と受け止めていいのですね。その上『哲学の根本問題』では、相互に限定しあい、かつ自己限定する人格的個物とそれらを媒介する弁証法的一般者としての世界が実在だということになりますから、「経験」から「意志」へ、さらに「場所としての無」へ、そうして最後に社会的・歴史的な存在へと、どんでん返しのどんでん返しのような変化とも受け取れます。
西田>そうですね、普通「純粋経験論」で評判を取ったら、あとは一生「純粋経験論」を深めていけば哲学者としては一貫性があるわけです。純粋経験論の立場から自由意志や場所、絶対無を論じるというように展開する筈です。でも私の場合は、テーマが変われば、それにつれて立場まで変わってしまいます。
やすい>でも各瞬間と瞬間を貫く自己同一性、アイデンティティがあるんでしょう。
西田>それは生死とまともに向き合うということでしょうか。「純粋経験」を論じていますと、その前提に「絶対自由意志」があることが分かり、「絶対自由意志」も「絶対無」に裏付けられていることが分かりますと、働くものから見るものとしての「場所」に立脚点を求めたんです。そして今度は、見るものとしての場所においては、「物となって見、物となって考える」というように個物が実在として捉えられます。しかし主語になって述語とならないものとしての真の個物は、自己を限定する人格的な個人なのです。ですから真の実在も、人格的個人がそれらが相互に前提し合う「私と汝」の関係です。また第三者もそこに関わらなければ現実の歴史的社会的実在になりません。その人格的表現としての社会的な諸事物も含めた、弁証法的一般者の自己矛盾的な世界が実在として展開するのです。
やすい>ということは、西田先生は、実在が意識か物質かのいずれかという問い方を拒否されておられるのですね。純粋経験というのも主観・客観が未分化か、主観・客観が合一しているわけですから、意識であるとともにノエマ的には事物でもあるわけです。絶対自由意志という場合でも、この意志は意識自身が自己を統合する意識自身の働きの面なのです。自己というのは意志の面をノエマ的に捉えたものに過ぎません。自己が意識を統合してまとまった形で見える時に、対象として意識が捉えられているわけです。意識から対象に統合する働きの面つまりノエシスを捨象しますと、客観的事物として意識が現れるわけです。ですから絶対自由意志は意識であるとともに事物でもあるということになるので、意識か物質かどんちらなんだということにはなっていません。
西田>その意味では生の経験が実在であるという観点が、最後まで貫徹していると言えるでしょう。ただ『哲学の根本問題』では現実の生の人格的関係やそれを限定する社会や歴史を実在として強調したかったので、主観主義的に受け取られる純粋経験論には距離をおいたわけです。決してそういう現実を純粋経験すべきだということを否定したわけではありません。ただ実在を純粋経験でしかないという規定だけではすまされないということです。
やすい>『哲学の根本問題』では絶対無や場所は、それ自体も実在でしょうが、それよりも個物や社会などの実在を媒介する役回りになっています。弁証法的一般者という概念を使ったので、絶対無や場所が一般者としては影が薄くなったと言えるかもしれません。それでも絶対無や場所はその後も最後まで使われています。最後の本格的論考が「場所的論理と宗教的世界観」です。1945(昭和20)年の2月4日から4月14日まで死の近い事を予感されながら、毎日決死の覚悟で書かれたそうですね。
西田>私は自己自身を限定する人格的な個物を実在として捉えたかったのです。なぜなら人格が自己自身を限定するのは、絶対の無と人間が直面しているからなんです。そこで始めて真に生きるということが迫ってくるんです。単なる石ころだったら慣性の法則などの物理的な関係に支配されているだけで、自己のあり方を決定しようということにはなりません。高等動物の場合でも、衝動に身を任せて欲求を充足させて生きていればいいわけですから、腹が空いたから獲物を捕らえる、フェロモンを嗅いだからセックスをしたわけです。そこには真に自己のあり方を選び取り、決定するという動機に欠けているのです。ところが人間だけは死と常に直面していて、この絶対の無から限定されます。この現在がいわば絶対的な時であり、永遠の今なんです。死というのは自分が死ぬというだけではありません。あらゆる否定や喪失です。希望を絶たれたり、絆を失ったりすることでもいい、生の豊穣が脅かされことは、死の予感ですからね。
やすい>「人生の苦悩」はすべて死である絶対無につながっているわけですね。それで西田先生は「哲学の動機は驚きではなく、人生の苦悩でなければならない」と仰ったのですね。

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