西田>そうです、「哲学の動機が驚き」だと言ったのはアリストテレスですが、当時は未だ哲学と科学は分化していません。知的好奇心というのは驚きから来ますからね、ところがソクラテス的ないかに生きるかという問いに対する吟味としての哲学では、人生の不安や苦悩が動機になります。でも絶対無というのは絶対の否定だけれど、絶対の否定に直面して始めて真に生きることができるという意味では、これがそのまま絶対の有でもあり、絶対肯定でもあるということになるんです。
やすい>当時の若き唯物論者達には先生の「無の論理」が苦手で、敬遠していたようですね。無というのは有の否定だから有が先だし、有が原理だと反発していたようです。その点は私の恩師の梯先生や舩山先生にも共通しています。生が自覚される場所、存在が現れる場所というのをぎりぎりまで突き詰めると、ある意味で死や無に首を突っ込んで始めて生や有が出てくるというのは納得できます。また死即生とか無即有とかの「即」という言葉のリアリティも実感できますね。ただし否定即肯定、絶対否定即絶対肯定となると、否定だと思っていたのに、肯定と同じことかということになり、批判や否定が徹底しないじゃないのかという非難が起こります。結局は非合理な体制に取り込まれる論理になって、西田哲学も体制擁護のための御用哲学でしかないという批判です。
西田>そういう議論は屁理屈でして、揚げ足取りです。純粋経験は活き活きと固定観念に囚われずに現実をありのままに捉えますし、絶対自由意志・絶対無などは、何者にも囚われずに決断でき、しかも死んで生きる非連続の連続ですから、決死の覚悟で体制を変革する論理にだって成っています。否定即肯定ということだって、ちゃんと否定の契機があるわけでして、何も不正や不合理を正すべきじゃないということでは全くありません。西田哲学が行為的主体の哲学であり、構想力によるポイエシス(制作)の論理を構築しようとしていたことを忘れてもらっちゃ困りますよ。西田哲学に限らず、哲学は元来が善く生きるための思索でして、体制を擁護するか変革するかは、どちらがその時代において善く生きることになるかで決まるのです。西田哲学は行為的主体の哲学ですが、体制を擁護すべきか変革すべきかまで縛るものではありません。
やすい>その意味では左翼の中に西田哲学を取り込もうとする人がもっといても良かったのですが、『唯物論研究』では西田哲学を体制擁護の哲学だと見なす風潮が支配的です。梯先生は『唯物論研究』に「西田哲学を讃える」という論考を載せられましたが、これが唯一の例外です。