西田>西田哲学を全体主義として非難しようと思えば、いくらでもできます。この時期は個体主義といわれるぐらい人格的個物の主体性を強調しているんですが、しかし個物は自己自身を否定して一般者の現れにならなければならないという面を捉えれば、これは全体主義です。
やすい>でも逆に、一般者も弁証法的に自己自身を限定して個物になります。この限定も一般者であることの否定です。だからお互いさまなのでしょう。そこで個物は具体的普遍となるわけです。その場合個物は個物性を保ったままですから、個物としては否定もされていなければ、死んでもいません。ですから西田哲学でどうも気になるのが、言葉の上だけで否定や死が語られるような気になることです。
西田>個と一般は対極概念でしょう。個物というものは個だから一般じゃないんです。たとえばここに個物があるとします。それが一般概念から見て、リンゴだとしますね。そうしますと他のリンゴと同類だということで、もう個として区別されていないわけです。だから厳密には個物とは言えません。
やすい>そこですね、一般的な規定が与えられるのは個物の否定だとか、死だとか言われます。でも一個のリンゴは個物なんです。たしかに同類なんだけど、他の同類のリンゴとの比較で個として区別されるでしょう。
西田>でもその区別によって規定されると、また分類されて一般化されますから、やはり個としては否定されるのです。
やすい>最近のリンゴは「ふじ」や「王琳」などの銘柄に分類されます。「ふじ」の中の一つのリンゴもやはり個物には違いないでしょう。ところが西田先生の場合は、個物というのを個として独立しているという意味で、定義された上で、一般的な事物は他の事物や関係から限定されているから真の個物ではないとされるのです。ところが西田先生も強調されておられるように、個は他の個に対してはじめて個です。その場合、共通の規定つまり一般者が両者に当てはまっているわけです。そして個である以上は当然別物ですから、両者に区別がなければなりません。つまり両者は別の一般者の現れでもあるわけです。
西田>だからそういう限定される個物というのは一般者に還元されてしまって、真の個物とは言えないんです。真の個物は限定されないで自らを限定する人格的な存在だということになるでしょう。
やすい>私の場合、個物の定義の中に仲間に入っているということがあると思うんです。ところが西田哲学の場合、定義的に仲間に入っていれば個じゃないというのがあります。でも実際にはすべて個物というのは何らかの仲間に入っているわけです。これでは個物であることによって、かえって個物ではないということになってしまいます。そこで個物の否定だとか、死だとかという騒ぎになってしまいます。でも分類されたところで個物でなくなるわけではないから、何か空騒ぎの印象があるんです。
西田>それはあなたが唯物論者の系統だからじゃないですか。唯物論者はすぐに物質的な土台から人格や意識を規定してしまうでしょう。個としての自立や主体性に無頓着ですから、組織の力に押し流されてしまうのです。かえって唯物論の方が西田哲学より全体主義なんですよ。