3-2-1前置きとして

第二節 行為的直観と人間存在

「行為的直観」とは何か?

やすい>いよいよ「行為的直観」に入っていただきます。「行為」と「直観」では相性はしっくりいかない気がしますね。だって物事を行為の立場で捉えるときには、目的とか手段との関連において捉えるんでしょう。直観といえば、直接何の関連もなしにあるがままに受け止めることでしょう。だから「行為的直観」というのは矛盾した表現ですよね。
西田>そうですね、一般的な意味ではそういうように思われます。でも前回の『哲学の根本問題』についての議論で、マルクスの実践的唯物論に触れたところがありましたね、『フォイエルバッハ・テーゼ』の冒頭句です。
やすい「従来のすべての唯物論の主要な欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとでのみ捉えられ、感性的な人間的活動、実践としては捉えられず、主体的に捉えられていないことである。」の箇所ですね。ここでも「直観」と「活動」や「実践」が対極的になっています。つまり「直観的」ということは「行為的」じゃありませんね。でも西田先生はマルクスのこの文章にとても感動されています。
西田>ですから「対象、現実、感性」をただ客体的な事物として受動的にだけ、ありきたりの観念で捉えていては駄目だということなんです。そういうありきたりの意味での「直観」に対して、私は「行為的直観」という言葉で「対象、現実、感性」を「感性的な人間的活動、実践として主体的に捉える」ような直観を表現してみたのです。
やすい>ですが人間的活動、実践として主体的に捉えれば、どうしても反省を伴いますから直観じゃなくなるんじゃないですか。
西田>じゃあ、これは何ですか?
やすい>腕時計です。
西田>これは?
やすい>『西田幾多郎全集第八巻』。
西田>ほとんど瞬間的に答えられるでしょう。未知の事物に出会った時に、類似している物から類推して分類するのは反省を伴いますが、よく知っている物については、ほとんど反省なしに何物であるかは、見た瞬間に了解しています。こういうのも直観に分類すると、「行為的直観」ということになります。
やすい>パースは瞬間的な知覚にしても、センス・データはすごく荒っぽいもので、かなり思惟が働いて像を形成しているのだから、直観能力などないんだとしています。
西田>反省的思惟と直観を峻別してしまいますと確かにそういう議論になります。純粋経験論でも、純粋経験は主客未分な反省以前の状態の筈なのに、それを『善の研究』では、唯一存在であるとするから、高度な科学的認識もそこに包括されることになってしまう。それはおかしいという誤解が生じました。
やすい>そういえば、直観と反省については自覚においては両者は一つだという議論をされていますね。
西田>ええ、自覚つまり自己意識においては、客観的な事物の経験も自己の意識でしかないわけです。そしてその意識としての統一性が活き活きしたものであれば、純粋経験といえるわけでして、今日の議論では高度な反省的認識も「行為的直観」なのです。
やすい>その場合は、すでに客観的事物であるという面は否定されていて、主客統一が回復されているわけでしょう。
西田>ですから行為的直観的に見るというのは己を絶対無において見るということであり、「物と成って見、物と成って考える」という姿勢です。
やすい>それじゃあかえってパースの人間記号論に近いですね。パースは「人間は思考であり、思考は記号であり、記号は事物が他の事物を指し示すことである」としました。つまり人間は事物の指示行為に成っているのです。

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