活動としての事物

西田>行為的直観の場合は、直接対象を把握するのですから、対象は感性的な人間的活動、実践として主体的に捉えられているわけです。反省や思索を媒介にしていましても、自覚のグレイドに達していて、行為的直観的に対象と合一していますと、同じことが言えます。
やすい>その点は大いに共鳴するところです。普通は例えば柿の実が赤く熟れて食べ頃だと判断する場合には、柿の実はあくまで人間の外にある事物ですから、人間的活動や実践じゃないと思われます。主体的に捉えて、柿の実を人間の一部にしてしまうというのは、一般の理解を得にくいところですね。それは人間というと人間の身体に限定して捉えがちだからです。
 でも人間の生活は、衣食住やその他の文化的生活のすべてを包括しています。例えば衣服を着ている人を見て、身体部分が人間で、衣服が非人間とするのは、もちろん悟性的には正しいのですが、衣服を着ていない人間は風呂場以外にはあまり見かけません。もっと分かりやすいのは貝の例です。貝は貝殻なしでは、貝とは分かりません。どちらかというと貝殻で貝を見分けているようなところがあります。でも貝殻は貝の分泌物が固まってできた貝の住居なのです。だから貝殻は貝ではないとも言えます。でも普通は貝殻を含めて貝と見なしています。蓑虫の蓑も蓑虫たるゆえんです。ビーバーのアイデンティティーもビーバーの体を見るより、ビーバー・ダムや水中住居を見た方がよく理解できます。だから身体の器官を構成していなくても、身体的なまとまりを構成している自然物を「非有機的身体」と『経済学・哲学手稿』のマルクスは呼んでいます。それで単に身体だけでなく、人間生活を構成しているすべての社会的事物も含めて人間として捉えることも理性的にはできわけです。

西田>『善の研究』では純粋経験を唯一実在として全てを展開したように、西田哲学では経験が全てです。事物という形で対象的に捉えるのも、我々の生活や生命の経験を説明する為に過ぎないのです。生活や生命の経験というのは活動や実践として捉えることができるわけですから、様々な事物も活動や実践を対象的に捉えたものにすぎないといえます。
やすい>じゃあ、柿の実はどういう人間の活動なのですか。 西田ー柿の実は秋になると熟れて美味しくなるので収穫されて食べられます。集荷されて市場に運ばれ、消費者の茶の間でも喜ばれます。渋柿も干されて干し柿にして正月のお飾りやおやつにされる。そういう人間の活動を説明するとき、柿の実という事物概念を使わないと説明できないのです。
やすい>既成の唯物論者に言わせれば、それは本末転倒でしょう。柿の実という客観的事物がまずあって、それが秋には熟れて美味しくなるから、そのことを認識した人間が収穫して直接食べたり、商品にするんです。柿の実という客観的事物は、人間の活動じゃないからこそ、それに対する収穫や輸送や販売や消費という人間活動が、生まれてくるというわけです。
西田>もちろんそのように認識するのも、「活動」という言葉の定義次第では間違ってはいません。でも場所の論理で言いますと、それは「有の場所」の論理です。そういう柿の実という客観的事物の認識も、柿の実を食料として利用する生活実践の総括から生まれているわけです。例えば柿の実を食べる烏がいます。烏は「柿の実」を事物として認識するのではなく、生理的な食欲を刺激する一個の「表象」として知覚するわけです。その結果それを啄いて食べる。そうした生命活動を我々人間が観察すると、烏という鳥が、柿の実という果物を採集して食料にしているというように事物関係で説明してしまうことになります。烏にとっては柿の実は自分の空腹時の一つの生理表象であり、経験であり、活動あるいは実践の一つの過程であり、状態なのです。
やすい>それは烏という動物の幼稚なレベルで捉えるから、物事を客観的に捉えられないとも言えます。人間は自然関係を客観的に認識できるわけで、人間の認識のほうがレベルが高い筈です。
西田>そりゃあそうですね。でも客観的な事物認識では、認識する主体と意識内容とそれが指し示している客観的事物は、それぞれ別物として対立してしまいます。そうすると自己というのは、世界とは切り離されて単なる身体か霊魂とか精神的自我と見なされてしまいます。世界は自分とは絶対的な他者である事物によって構成されてしまうのです。でもほんとうは事物も生命活動である経験を対象面でノエマ的に捉える意識の活動に過ぎない筈です。
やすい>空も海も花もパソコンもコップも我々の意識活動が事物という形で対象化されたものである。本来的には、我々の活動や実践であり、行為的な存在だということですね。
西田>だから生命や生活や世界といっても結局、われわれの意識経験の連続でしかないのです。そして意識経験を成り立たせている諸要素は、意識経験自身が自分を説明するための道具立てにすぎません。例えば「水を飲む」という経験を説明するときに、「コップで水を飲む」という表現で、その時の様子が説明できています。コップというイメージを喚起することで意識経験が対象として物の姿で限定できるんです。この場合でもコップは経験の要素として意味があるわけで、あくまで活動の姿の一部でしかないんです。
やすい>では「空」や「海」や「花」も経験や活動だというのはどういう意味なのですか?
西田>「空」というのは何か物体のような物じゃありません。「青空」なんていうのは目前に広がる青色感覚の経験を名詞化してあたかも事物のように捉えているのです。晴れたり、曇ったり、激しく雨が降ったり様々に気象は変化し、季節によって空模様は変化します。そういう様々な空の下で人々は働いたり、通勤したり、恋をしたり、車を走らせたりしているわけです。そのそれぞれの活動の中で空を様々に体験しています。「海」は「我は海の子、白波の騒ぐ磯辺の松原に、煙たなびくとまやこそ、わが懐かしき住処なれ」に代表されるような日本人には格別に深い「海」体験があります。私にも能登の海、鎌倉の海が私の生命の波長と深く係わっているような気がするのです。「花」は被子植物になってから現れたものらしいですが、もし花がなかったらと思いますね。花を見た人生と花を見なかった人生を比較して見てください。
やすい>「花よりだんご」って人も多いようですね。「551の豚まんがあるとき、ないとき」というテレビコマーシャルがありますが、「花を見た人生と花を見なかった人生」は大いに違います。
西田>テレビジョンの実験は行われていたようですが、私はテレビ放送というのは見た事がありません。

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