働くことによって見る

やすい>それじゃ純粋経験というのが客観的な事物に対象化される前の主観・客観が未分化な経験や、客観的な事物を自覚において意識と統合することだとしますと、行為的直観というのもそれを行為という意志的な行いの面から表現しているわけでしょう。
西田>そうそう、その通りです。純粋経験論でも人間の意識経験は意志によって統一されたものとして捉えられていました。だから主客未分化といっても意志がない漠然とした意識状態ではなく、むしろ活き活きと生々しく迫ってくる経験だったわけです。その意志的行為的な面を強調して、具体的な歴史的社会的状況の中で、行為的主体が働くことによって見るのが、行為的直観なのです。
やすい>そうしたら行為的な主体は、物事を自分の目的や理想あるいはイデアに照らして反省して見なければならないのですから、純粋経験や行為的直観ではなくなるでしょう。
西田>その疑問はもっともなんですが、それは未知の事象に出くわした場面で言えることです。我々の細胞の遺伝子は、長い長い生物の何億年の歴史を生きてきています。生物としての種としての体験知を内蔵しているのです。また歴史的社会的に蓄積された知識も、諸個人の体験知や教養を通していろんな形で入っています。ですから我々の身体は歴史的身体なのです。だから大概の事象はそれがどのような物なのか、それほど反省しなくても分かります。もちろん相対的な意味で言えることですから、反省にかかる時間が全くゼロというわけにはいかないけれど、ゼロに近い。ゼロに近ければ、それだけ主客未分化と言えるから行為的直観と表現してもいいのです。それに未知の物に出くわして、反省的に思索する場合でも、その未知なる物を取り囲んでいる状況を、行為的直観で種的・社会的・歴史的にどのようなものか把握しているからこそ、考える事ができるのです。
やすい>「働くことによって見る」という場合、環境はホモ・ファーベルとして制作する対象ですから、働くことは物に自己を表現することになりますね。
西田>ええ、ですから表現された自己は物の中に見いだされるのです。「物となって見、物となって考える」ことで、結局自己自身が直観されるわけです。
やすい>ということは、物と人の区別が止揚されるということなのでょう。物も人間に含まれると捉えることになりますね。
西田>物は自覚の立場に立って、主体的にノエシス面から意識として捉え返しますと、それは自己の状況ですからね。
やすい>今、『月刊状況と主体』が2000年の新年号で廃刊になるというとんでもない情報が飛び込んで来て、気が動転しているところです。『月刊状況と主体』なしに、「やすいゆたか」という存在があり得るのか、まさしく断崖絶壁に立たされている境地です。
西田>あらあら、夢対談に呼び出しておいて、途中で断崖から飛び降りるようなまねは止めて下さいよ。せっかく西田哲学に親しみを感じはじめた読者にも失礼にあたります。西田幾多郎が『西田幾多郎全集』の中に生きつづけているように、やすいゆたかは『月刊状況と主体』の中に生きてきたわけですね。大工さんはその建てた家の中に、寿司屋さんはその握った寿司に自己を表現しています。むしろアイデンティティとしては、物の中にこそあるというべきでしょう。にぎり寿司はもちろん寿司であって、寿司屋自身ではありません。大工は人間身体であって、家屋ではないのです。その意味では物はあくまで物であって、人間ではないのです。でもガウディの設計した教会建築は、ガウディという個性の表現として、ガウディという人間そのものだとも言えます。
やすい>たしかにガウディという人を見ても、ガウディの人間の偉大さや真の個性は分からないでしょうね。むしろ彼の作品である教会建築によってはじめてガウディが分かります。そのことが歴史的身体としての人間には行為的直観できるということですか。

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