西田>教会という建物とガウディという人間は、物対人ですから、全くの他者です。でもその教会はガウディの個性表現であることに最大の特性を持ち、ガウディは自己表現である教会にこそ自己の自己たるゆえんをもっているわけで、これも絶対矛盾的自己同一だと言えます。物の中に人間や人間関係を見るということは、マルクスの『資本論』では使用価値である品物を商品として捉え、その中に交換価値を見いだすこととして展開しています。
やすい>私の恩師梯明秀先生は、そこに西田先生の絶対矛盾的自己同一の論理を当てはめて説明されたのです。マルクスは、物が人間的な社会関係を取り結ぶとみなすのは、物を人間と倒錯したものであり、未開人の宗教であるフェティシズム(物神崇拝)に陥っていると考えました。商品関係というのはまさしくそういうフェティシズムを共同幻想としてもっている関係だということです。労働関係というのは実は人間の社会関係であって、物の関係ではないのだけれど、物の中に含まれている労働の社会関係として物に置き換えられ、物の価値関係として現れるわけで、だれもが価値を物の属性だと思い込んでいるのだと、マルクスは資本主義社会の精神病理を診断したのです。
西田>ところが品物はそれ自体としては使用価値でしかなく、少しも人間の労働は自然属性としては入っていません。でも歴史的社会的に商品交換を通して社会的分業を営んできた歴史的身体である人間たちは、メリヤスや上着という使用価値に価値を行為的に直観するのです。
やすい>そこで西田先生に疑問を質したいのですが、西田先生も物と人間を絶対の他者とみなされるからこそ、物の中に人間を見いだされることが、絶対矛盾的な自己同一になるわけですね。ところが他方で西田哲学には表現的世界論がありまして、社会的な事物は人間にとって自己表現の素材です。そこでは事物もむしろ行為的主体にとって自らの姿として実践的に捉え返されています。つまり「物となって見、物となって考えて」いるわけです。そうしますとメリヤスや上着、パソコンやデジカメを労働の社会関係をノエマ化したものとして見なすのも、別に倒錯でもなんでもないことにはなりませんか。
西田>だからマルクスも使用価値の面では、それが具体的有用労働の表現であることを否定していません。人間の実践をノエマ化して他者として対象として捉えたのが事物なのです。これをノエシス的に見ますと、事物は人間の活動なのです。そこで事物は他者であると共に自己であるという構造を持っています。これは言い換えれば、人間は自己を活動として捉える為には、いったん絶対無において自己を否定し、「物となって見、物となって考え」るべきだということなのです。そうすることでかえって物の中に行為的直観的に自己を見いだすことができるのです。これも「死して生きること」であり、「非連続の連続」と言えるでしょう。
ところで今、問題にされている事物を価値として捉えるのが倒錯かどうかという問題ですが、マルクスは事物にノエマ的に〔x量のメリヤス=y量の上着〕というように価値関係が表現されることを倒錯だとしているわけです。もちろんこれが成り立つためには、両者の根底に等量の社会的な労働があるわけでして、交換を説明するために、そのような人間活動に両者が還元されて捉えられるならば、少しも倒錯ではないわけです。しかしその場合には既に、両者は人間活動に還元されていまして、ノエマ的対象性は止揚されています。ですからノエシスである労働がノエマである事物の価値として評価される関係では、労働は他者である事物として自己疎外されて捉えられているのです。