断絶の苦悩

やすい>西田先生はマルクスの自己疎外論を既に取り込んでおられましたね。その点からの西田再評価も今後の西田研究の課題でしょう。ところで「物となって見、物となって考え」るべきだという西田哲学の立場を貫徹しますと、意識は個人の身体の意識であるだけでなく、社会的な諸事物や自然的な諸事物が人間の意識を生み出しているとも言えるわけです。人間の意識が神の意識であるとか、個人の意識は一般者の意識の現れであるとか言われるわけですからね。そうしますと社会的な事物が人間的意識を生み出して社会的諸関係を取り結んでいるとも言えます。こう考えると社会的な事物が商品や資本などの経済的な規定を持っても、いいんじゃないかと思うわけです。
西田>つまり倒錯じゃないと仰りたいわけでしょう。やすいさんの説だと社会的事物が安易に人間になってしまっています。たしかに事物は人間を表現するものであり、その意味で人間化が語られて当然です。そしてその事は「物となって見、物となって考える」ことの裏返しです。しかしそれは絶対無に接して、死して生きることであり、苦悩の末の命懸けの飛躍なんです。十字架の上で死ぬ覚悟が必要なんですよ。
やすい>イエスは十字架に死に、命のパンになって、甦ったというわけですからね。しかしそれは食べるだけでなく、食べられることで生命の循環を取り戻して、大いなる生命に還帰することによって、「永遠の生命」を証したということです。それは自然の摂理に帰ることに他なりません。西田哲学でいう「絶対無に接する」ことや、「死して生きる」ことも結局、「物となって見、物となって考える」ことですから自然の摂理に帰ることに通じています。
西田>ところが人間は禁断の木の実を食べて、自然と断絶してしまった。事物とは絶対の他者になってしまったのです。動物の段階だと循環と共生の中で、大いなる生命に包まれていたので、自分が生きることつまり食べることは、対象が死ぬことつまり食べられることであり、自分が死ぬことつまり食べられることは、対象が生きることだった。生即死、死即生がありのままに展開されているわけです。貝殻も含めて貝だとか、ビーバーダム全体がビーバーの総体だとかいう捉え方が抵抗なくできるのです。でも人間の場合は、衣服も人間だという捉え方には抵抗が強いですね。機械が人間だというとマルキストも含めて猛反発を受けることになります。人間を理解しようとしますと、どうしてもこの自然との断絶、事物と人間が絶対の他者であるということを踏まえ、その上での自己同一を説かざるを得ないわけです。やすい説は結論だけ捉えて自己同一を説かれているように聞こえます。でも哲学の動機は、断絶の苦悩にあるわけで、絶対矛盾が語られないと胸に響かないのです。
やすい>人間と自然との断絶や社会的諸事物と人間が絶対の他者になってしまったことの検討は、私の著作の中にかなり展開してきたつもりですので、この対談だけでは物足りない方は『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』(青弓社)、『歴史の危機ー歴史終焉論の超克のために』(三一書房)、『フェティシズム論のブティック』(石塚正英との共著、論創社)などをご参照願いたいと思います。やすい哲学入門ではなくて、西田哲学入門講座ですから、西田先生の問題意識にかえって議論しましょう。
 「矛盾的自己同一」が「絶対矛盾的自己同一」に深まるのは、やはり「人間から神に至る道はない」という神との断絶の自覚があったからじゃないでしょうか。その背景にあるのは、家庭的にヨブの苦しみを体験されたことが影を落としていると思います。単純明快に「純粋経験が神だ」という『善の研究』とはだいぶ趣を異にしています。「絶対矛盾的自己同一」は、時間論では過去・現在・未来が現在において絶対矛盾的に自己同一であること、また個人と社会、人間と環境、個物と弁証法的一般者の間にも認められるとされています。それらについては次号に回します。いずれにしましても、単純に自己同一しているわけではなく、そこには徹底した自己否定、死の覚悟が求められているわけです。そこが西田哲学が禅仏教や武士道の精神的伝統の下にある所以でもあります。次号は最終号ですから、「絶対矛盾的自己同一」を具体的な事例で検討することから入って、西田哲学自身がそれによって育まれている『日本文化の問題』でまとめることにします。

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