やすい>ホロコーストなど悲惨な事件を生み出す時代を作っているのは、その時代の人間たちなのですが、悲惨な事件が起こりますと、その事件によってその時代の人間が作りだされます。作られたものが作るものに成るわけですね。
西田>ええ、作られたものというのは、事変や戦争や国際会議や平和的な祭典という場合もあるでしょうし、最新鋭の機械や兵器あるいは由緒ある茶釜とか美術品や宝石などでもいいんです。資本主義社会ではすべての生産物が商品として作られますから、生産・流通・消費の全活動がそのことによって限定されます。労働力の商品化によって、労働者は自ら作るもので有りながら、同時に労働力商品として日々労働過程で再生産されているのです。
やすい>社会的な諸事物は特定のある事物として作られます。例えばフォード社製の乗用車としてベルトコンベヤーに載って、同じ車種が数十万台、数百万台と作られるわけです。「豊かな社会」というコンセプトの下で、巨大な生産設備、ベルトコンベヤーによる均質的でハイクオリティな製品、フォード車が買える高賃金で安定した雇用体制などが実現したのです。沢山の技術や人々の利害や願いなどが結集して、多が一になってできたわけです。それと同時に「フォード車」は一つのイデアであり、弁証法的一般者ですから、社会的な実現の条件が整えば、大量に生産され、大量に消費されます。つまり一が多になっているわけです。この一と多の関係も絶対矛盾的自己同一の典型ですね。
西田>一は一ですから多ではありません。多は多ですから一ではないのです。真の個物は人格で本来普遍的な規定ができない筈ですが、自分は自分でしかないということに固執するのをやめ、自己否定的に何らかの規定を受け取るわけです。寿司屋になるのをやめてパン屋になるとか、私のように数学者になるのをやめて哲学者になるとかします。哲学者というのは一般者としては一つの職業ですが、それは何人もの哲学者がいるのでその仲間に入っている限りで、つまり多として始めて一である個人が哲学者であり得るのです。
やすい>真の個物は主語になって、述語にならないという論理ですね。そこから一は多であり得ないのに、多であるというのが、単なる矛盾的自己同一で済まされずに、絶対矛盾的自己同一とされるのでしょう。
西田>それに個つまり一つは、元々弁証法的に捉えますと対立の統一です。様々な契機が統合されて個を形成しているのです。ですから一は多のまとまり、多の一なのです。それで一は展開しますと、多に分岐します。これを歴史にあてはめますと、過去から現在は「一から多に」なります。また多は相互に一つのイデアに導かれ、一つの事物を生み出すわけです。その一つ一つは多の関係でもあります。これを歴史にあてはめますと、現在から未来へは「多から一に」になるのです。過去・現在・未来が絶対矛盾的自己同一であるように、一と多も絶対矛盾的自己同一だということです。
やすい>作られたものに労働者も入りますね。労働者も労働力商品として日々再生産されるわけですから、西田哲学を適用しますと、労働者は真の個物として、絶対自由意志を持っていますから、資本の支配に従順な単なる労働人間として限定されてしまうことはできないことになります。ネジや釘やモーターのような事物には成りきれないということですね。それでも資本制社会では労働力商品として資本の需要を満たして、資本制社会を再生産できなければならないわけです。つまり作るものになるわけです。ですから労働者は労働力商品として絶対矛盾的自己同一的な存在なのだとされたのですね。
西田>そこで労働力商品が表現的世界において作りだす生産物は、資本制ではすべからく商品にならざるを得ません。そこでそれらを手に入れ、消費しなければならないので、労働者はますます労働力を売る商品人間に成らざるを得ないわけです。これはつまり生産物は商品として作られるものであると同時に、作るものとしては労働者や社会全体を商品や商品社会として作っているわけです。そこで作られた生産物は使用価値の他に、価値としても存在しなければならないことになります。これも絶対矛盾的自己同一です。