八紘一宇

やすい>絶対無に接して、物の真実に徹する見方や、それに基づく新しい物や世界の創造は、日本が閉鎖的な島国を脱して、全世界に直面している現代においては、それは単に日本一国の歴史創造に止まらず、世界創造の理念を提供することになったとされています。つまり皇室中心の歴史形成を日本のみならず、東亞共同体でも、全世界でも行うべきだということになったのです。これが「八紘一宇」ということですね。
西田>八紘一宇を帝国主義的な領土的野心と解釈するのは我田引水でして、西洋近代の合理主義が市民革命や産業革命以降の世界を照らしたのと同じことなんです。しかし西洋近代の合理主義は今や行き詰まりです。それはあくまで有の論理しか捉えられなかった。事物と人間の意識を断絶させたままに終わってしまっていたのです。ですから物はあくまでも外面的にしか捉えられず、ただ利用対象でしかなかった。これに対して日本精神は行為的直観的に、自己を絶対の無におくことで「物と成って考え」「物となって行う」わけですから、人間と自然との断絶を超克する原理を持っているのです。この原理、つまり日本精神が世界を照らす時代にしようというのが「八紘一宇」です。これは納得づくでないと広がりませんから、無理やり東亞諸国や欧米諸国に押しつけることは不可能です。
やすい>現実に軍部がどんどん先に侵略して、権益を拡大してしまいました。その上で日本精神を説いても、相手の国民の屈辱感を刺激するだけです。そして我々がどうしても納得できないのが、絶対無や場所を皇室とすり替えてしまうことです。皇室は現実の生身の「裕仁」という人間に体現されてしまいます。別に「アーソー、アーソー」しか言わない人であってもいいわけでしょう。それじゃあ石や蛇を神として祀るフェティシズムの一種になってしまいます。
西田>昭和天皇は高潔なお人柄で、思慮深く、決断力もお持ちでした。決して「アーソー、アーソー」しか言わない方ではありません。私は皇居で進講していますから分かりますよ。時代状況がそれだけ厳しかったということです。それに戦後の象徴天皇の時代は全く意志的に行動できないシステムですから、「アーソー、アーソー」しか言わない人でいいわけです。フェティシズムの場合は御利益がなければ、破壊や取り替えが可能ですが、皇室が主体を超越しているのは、万世一系だという信頼に基づいています。それで主体的一である時の為政者や個物的多である個々の人民が、絶対矛盾的自己同一としての絶対無の位置に皇室を置くことができるわけです。
やすい>ということは、万世一系という神話が剥がれ、天皇制を担いできた結末が敗戦という事態を招いたことから、日本人民はそういう幻想的なものを外して、場所や絶対無を捉えなおす必要に迫られているということです。それに天皇のような特定の血統と特別な関係を保っている者では、民族や国家を超えて協同を形成していく場合には、その中心としてはふさわしくありません。新しいミレニアムに向けて人類統合を展望する場合に、是非ともこれは留意されるべきです。
西田>私は当時の立場を説明しているだけでして、同じ原理を今後も続けるべきだと言っているわけではありません。西暦2000年の絶対の現在に立って、日本がそして世界がいかなる立脚点に立つべきかは、西暦2000年に生きている人々が主体的に考えるべきことだということです。西暦2000年の現在に甦るためには、西田哲学はいったん死ななければならないのです。イエスはイエスの体をイエスの言葉にたとえて、「人の子の肉を食べ、血を飲まなければ永遠の命は得られない」と言いました。さて西田幾多郎の著作を読み、その悪戦苦闘を追体験することで、永遠の今を感得され、永遠の命の実感を得ることができるかどうか、それ次第で私も「死して生きる」ことができるのです。
やすい>それがブーメランのように世紀末に戻ってきた、西田哲学の復活宣言ですね。さて紙幅もオーバーですので、『西田哲学入門講座』も閉講するしかありません。講座全体が途中から対談になったりして統一性がとれず申し訳ありませんでした。一冊の著作にまとめる場合は、全面的に書き直して、統一のとれたものにするつもりです。
 最後に一言、「時代の闇を照らしつづけた『月刊状況と主体』は永遠に不滅です。」

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