石塚正英・やすいゆたか対談 

フェティシズム論の可能性

                        

  1『白雪姫』の原風景

 

やすい: 石塚さんが「フェティシズム」に特に関心を持たれたのは何時ごろからですか?

石塚: 二十年以上前からのぼくの問題関心は、唯物史観についてのマルクスの理解を疎外論・物象化論・物神性論を踏まえてどうおさえるかだったのです。熊本大学の野々村さんが、それならマルクスの「フェティシズム」という観念はド・ブロスから由来しているので、マルクスの「ド・ブロスノート」を読んだ上で議論しなきゃ駄目だ。ひとつ君が翻訳してみないかと勧めて下さったのです。それが一九八二年頃です。

やすい: その時にポジティブ・フェティシズムとネガティブ・フェティシズムがあることに気付かれたのですね。

石塚: 訳していましてね、やはり一七六〇年のド・ブロス自身の著作である『フェティシュ諸神の崇拝』を読みたくなりまして、ドイツ語訳とフランス語の原本を入手して翻訳したんです。フェティシズムとイドラトリ(偶像崇拝)の違いをド・ブロスが一所懸命強調しているので、ポジティブ・フェティシズムとネガティブ・フェティシズムがあることが良く分かったんです。

やすい: 石塚さんの『白雪姫とフェティシュ信仰』(理想社)が良く売れていますね。白雪姫物語の変遷も興味深いのですが、肝心の白雪姫とフェティシュ(物神)信仰の関わりが難しいという人もいますのでご説明願います。

石塚: 家庭の為のメルヘンとして型に嵌めて『白雪姫』を捉えていますと、分からないんですね。兄のヤーコプ・グリムは言語学者として、古代ヨーロッパの神話の世界を資料として、あるがままに丹念に残そうとしたんです。実際は、語り継がれたものだから変化しているんですよ。ヤーコプには、古代ゲルマンの世界は古代ギリシアに匹敵します。たとえ近世になってフランス語で伝承されていようが、元はゲルマン語だったと考えていたのです。だから復元するってことは、ドイツ語に翻訳することなんです。『白雪姫』はユグノーのフランスからの亡命者から聞き取りをしているんですが、それをヘッセンの生粋のドイツの話だとしたのは、古代ゲルマンの神話の世界に根があると考えていたからです。

やすい: じゃあ、弟のヴィルヘルム・グリムの方はどういうモチーフだったんですか?

石塚: 彼は子供の教育の為のメルヘンに力を入れました。初版に批判的な反応もあり、あるがままだと残酷だとかで、十九世紀という時代に合わせてスイッチしていこうとしたんです。その頭で『白雪姫』を読んでると、フェティシズムとの関係が分からないんです。

やすい: では白雪姫説話とフェティシュ信仰の関係の要約をお願いします。

石塚: リトルド(書換え)されて、見えない部分があるんですが、元々は白雪姫の実母とされていた、お妃だった魔女が白雪姫の内臓を食いたいというんです。原始的な世界では、みんなで聖獣の内臓を儀式として食べました。内臓に一番神的なものがあるんです。

やすい: 自分の若返りの為に、若い白雪姫の内臓を食べたいと?

石塚: 美に象徴されるような聖なるものの最も本質的なものつまり内臓ですね、それを自分の体内に取り入れるということ、これがカニバリズム(人肉共食)です。これは残酷で十九世紀には受け入れられません。猪の肝臓を食べたいという話にスイッチします。

やすい: ところでお妃と白雪姫というのは、実の親子だったとしたら、同じトーテムになるので肉は食べられないんじゃないですか?

石塚: ところがこの物語だと、父系制なのか、嫁入り婚でよその氏族に属しています。それに継子いじめの話もありますね。継母だったら母系制でも整合性があります。

やすい: 継母にしたのはグリム兄弟でしょう。

石塚: そうなんですが、おとぎ話は話をくっつけますから、継母にしたのを一概に捏造だと言えません。ともかくトーテムが違えば、別のトーテムの神様は食えますからね。デュルケムによると、族外婚は、トーテムが同じだと同じ神の霊を体内に宿している者同志だから交われないので、よそのトーテムの者とは交わる必要が生じたからなんです。

やすい: その他に直接フェティシズムと係わる話はありますか?

石塚: フェティシズムの特徴はド・ブロスによるとフェティシュに対する崇拝と虐待の交互運動なんですが、母と娘がいじめ合うでしょう。特に最後は白雪姫は母を焼き殺しますね。役に立たなくなったフェティシュは打ち棄てたり、破壊したりします。この崇拝と攻撃の交互運動も白雪姫の中に読み取れるわけです。

やすい: おとぎ話とフェティシズムのつながりというのは、偶然白雪姫でつながっただけなのか、それとももっと一杯言えるのですか?

石塚: フェティシズムという言葉で直ぐに連想するのは、ド・ブロス的なフェティシズムじゃなくて、フロイト的な性的フェティシズムです。『シンデレラ』の「ガラスの靴」なんかはこの典型です。フェティシュに対する崇拝と虐待の交互運動や、フェティシュが人間の下僕のようになる、ド・ブロス的なフェティシズムは、『赤頭巾』や『ヘンデルとグレーテル』なんかがそうですね。『ヘンデルとグレーテル』の方が、『白雪姫』よりはる かにグリムとフェティシズムの関係をいうにはいい材料なんですよ。聖なる森に棄てられますね、森で魔女が出てくるんです。魔女はお菓子の家へ誘い込みますね。魔女というのは本来はフェティシュな神様だったんです。それがとんでもない魔女のように十九世紀にはかわっているんです。

やすい: 魔女はヘンデルとグレーテルを助けたんだけど、それはヘンデルとグレーテルを太らせて食べるためだったという筋ですね。それでは魔女がフェティシュだったというのはどういう意味なんですか?

石塚: それはプレ・キリスト教段階で神だったのを、キリスト教段階においては邪教はみんな悪魔信仰だということにしたので、女神を魔女にスイッチした瞬間から、優しく子供たちを育てているのに、あれは豚の飼育と同じで、実は食うためだったていう筋書きができちゃったんですよ。これは異教徒を排斥したり、異教徒の神はみんな悪魔か魔女だって事にするキリスト教の観念なんです。それがキリスト教の時代も長いので、もうひとつバ イアスがかかって、ナポレオン戦争のころからのドイツのナショナリズムの影響があるんです。占領下では、「フランス人は出ていけ!」と叫ぶ代わりに、ドイツ語やドイツ文化を素晴らしいという形でナショナリズムを煽っているんです。これが排外思想を煽るわけですので、魔女はまさに比喩としてのドイツの敵に当てられますよね。

やすい: じゃあ元の話は、森に棄てられた兄弟が優しい外国人に助けられたっていう話なんですね。食べられる話じゃなかったんだ。

石塚: そうですよ、氏族社会では部外者と仲良くすることが鉄則ですからね。イロコイ族 は見ず知らずの部外者の人をどんどん歓待して、食欲を満たしてやるだけでなく、性欲も自分の娘も提供して満たしてやるというんです。なんでも提供するんですよ。そこから族外婚が始まったんじゃないかと言われているんです。だから外国の人達、部外者、異分子は素晴らしい筈なんですよ、フェティシズムやトーテミズムの世界では。

やすい: そうしますと魔女は、フェティシズムの用語から考えて、どういう意味でフェティシュなんですか?

石塚: プレ・キリスト教時代の森や樹木の神などの自然神は、聖なるものですが、恵みを与えてくれるだけでなく、恐ろしいものでもあるわけで、フェティシュの特徴ですが、両義性をもった存在なんです。だからある時は憎たらしくなって虐待するんです。しかしそれに行き着くまでは、ひれ伏していて、フェティシュである神を罵倒したり、踏みつけたりした人間の方が火あぶりになっちゃうわけですよ。だから神は人間と闘争するわけですよね。これは和解を前提とした闘争ですよ。闘争と和解が交互になっています。そこから人間を苛める方だけ強調すると魔女になるんですよ。キリスト教時代になるとその面ばかり見られて、恵みや和解の面は置き去りになっちゃったんです。でもプレ・キリスト教時代にはフェティシュな神だったということです。それが『白雪姫』の原型にあるんじゃないかというのが、ぼくのこの本のモチーフなんですよ。

やすい: だからそういう意味では、フェティシズムがおとぎ話の原型に背景としてあるんじゃないかというのは、わりあい普遍的に言えそうですね。

石塚: だからフェティシズムをフロイト的な精神分析の意味ではなく、ド・ブロス的な意味を了解した上で、読んでもらえば、よく分かってもらえるんです。ぼくに夜のエッチな「ツゥナイト」というテレビ番組から出演依頼があったのですが、性フェティシズムと誤解されたんですね。そういう視野の下で読まれても分からないんですよね。だから先ずはド・ブロスに帰れということです。

やすい: 早速『ヘンデルとグレーテル』でそういうことを分かりやすく書いてください。

石塚: やりましょう。フロイト的な『シンデレラ物語』のフェティシュとド・ブロス的な『ヘンデルとグレーテル』のフェティシュの両方あって、それが違うのかというと、そうじゃなくて根っこは同じなんです。どっちが根っこかというとやはりド・ブロスなんですね。フェティシズムを理解するにはド・ブロスからやらなきゃいけないです。

やすい: ド・ブロスの場合、フロイトみたいにセックスにつながるものはありませんね。

石塚: ないけれど、やはりカニバリズムも広い意味では一種のセックスですよね。まさに肉体を介しての交信というか。

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