11商品物神の大洪水と大量廃棄
やすい:現代社会においてはどんどん生産が発達していって、商品物神の大洪水が起こっているわけです。それには表裏一体の関係で大量廃棄が伴います。そういう場合にはポジティブ・フェティシズムみたいに攻撃とは捉えられないとしても、廃棄するということを前提で生産していますから、これはフェティシズム論からいったらどうなりますかね?
石塚:今のハイテク製品は素晴らしいと言いながら、五年から七年で潰れるように作ってあります。モデル・チェンジや部品製造中止もあって、百パーセント壊れなくても、中枢部分が使えなくなります。そう意味の廃棄ですから、それは明らかに商品フェティシズムの真骨頂です。今までマルクスですら考えられなかった事態です。とりあえず作った商品は目一杯使ってから廃棄するのが前提でした。フォーディズムでもフォード自身、T型フォードをモデルチェンジしないでいましたから。廃棄することを前提に商品物神をつくるのですから、否定的という意味でネガティブ・フェティシズムと言えるかもしれません。
やすい:でもそれは廃棄にポイントを置けばポジティブ・フェティシズムになってしまいますね。
石塚:それはそうなんです。マイナスのことを指してポジだというわけですから、恐慌の場合に商品や機械をぶん投げたり、工場を閉鎖したりするのも、資本家がそうすることで商品・貨幣・資本に縛られているのを断ち切るという意味でポジなんです。しかし労働者にしてみればなんのポジでもありません。だからポジは特定の物神の束縛から解放される意味でのポジであって、必ずしも快楽や利益をもたらすとはいえません。殺人を含むオルギーがポジだといったら、何がポジだこの野郎!と反発される面もあるわけです。
やすい:やはりポジティブ・フェティシズムでも何でもいいわけではなくて、積極面もあるけれど、その中にも問題の現象はあるでしょう。
石塚:そうですね。一方で人間にとってプラスなものはポジだと言える部分と、形態だけを見て、あるフェティシュを攻撃する面を見てポジという部分とあるわけです。根本は後者の方です。フェティシュを攻撃するのがポジティブ・フェティシズム意味ですよ。それが人にとって快楽であることがあるんです。宗教においてはまさにその通りで、意地悪された神様をぶん投げるわけですから。もっとも都市を守る為に逃げないようにヘラクレスを縛ったティルスの市民が、どれだけそれを快楽と感じたかは分かりませんがね。それはフロイト的には快楽になりますが。
やすい:ポジティブ・フェティシズムの積極的な意義を捉える時には、人間が神にしたものに跪拝するだけじゃないという意味での積極性があるわけで、自分が神にしたものを自分が神にしたんだから自分で壊す、だから素晴らしいというのは単純すぎますよね。そうでないと商品を大量生産・大量廃棄する現代文明の問題点でも、それはポジティブ・フェティシズムだからいいというわけにはいかないですよね。そういうものを分析する視角としてのフェティシズム論も使えるということですね、逆に言えば。そういう中で、人間が商品・貨幣・資本の原理に溺れてしまっているところから出てくるいろんな問題も、フェティシズムの問題なんです。
石塚:そうですね。溺れるというのはネガティブな響きがありますね。
やすい:溺れないとまたやっていけない面もありますね?
石塚:そうなんです。溺れを自覚して回復できると、これはポジの方の意味での溺れなんですね。溺れを溺れとも思わないで、そのまま溺死してしまうとネガなんです。
やすい:いろんな場面において、いろんな使い方を根本を踏まえた上で分野によって再定義しながら使っていけば、今まで以上にフェティシズム論の可能性は広がります。社会・人文諸科学の各分野でもっとつかわれるべきタームであるということですね。
石塚:ええ、それから「フェティシズム」というカタカナで書くとどうしてもS・Mのイメージがでますが、元々フェティシズムという言葉にはS・Mの意味は全然ありません。だからド・ブロスに一度戻ってから、もう一度概念を多様化させていくべきです。「物神崇拝」とか「呪物崇拝」とかの日本語にしますと、そこに言葉のフェティシズムが生じてしまいます。「物神」だと神が物に成ったのか、物が神に成ったのかという混乱が生じますし、「呪物」では密教の関係で胡麻だきのときにでてくるものだったりして全くちがうのです。そこで「フェティシズム」というカタカナ書きが今のところいいわけです。でもぼくは平仮名で「ものがみ」「ものがみ信仰」と表記しています。これは松村武夫という神話学者がド・ブロスの「フェティシズム」を「ものがみ信仰」と訳したんです。「もの」も「もののけ」とか「ものの本」と使ったり、霊の意味でつかったりもしますし、それもよくないのかもしれませんが、漢字で書くよりはまだいいかなと思っています。