『資本論』とフェティシズム論

 やすい:千坂恭二さんによりますと、マルクスは文明の極致である資本主義こそ未開のフ ェティシズムのパラダイスであるという捉え方をしています。この捉え方は、アドルノー 的には『啓蒙の弁証法』ということになるのですが、とてもおもしろい。マルクスもフェ ティシズム論で『資本論』を展開したときは、楽しかったと思います。元々マルクスのフ ェティシズム論の発想は、貨幣からきたんですかね?

 石塚:ええ。『資本論初版』では「商品の物神性的性格」という節はありませんでした。 

やすい:あれは価値形態論で膨らんでいったんですね。 

石塚:『経哲手稿』の段階から書いてるわけだけど、ちょっと一回反省していますね。そ して「これをフェティシズムと呼ぶ」と定義しているんです。自分なりのフェティシズム 論を作り上げたという自信が窺えます。だけど種本になったド・ブロスの名前は一切ださ ないんです。これは軽く見ていたとも、逆に意識していたとも推測できます。

 やすい:フェティシュに対する攻撃面は触れられていません。人間関係を事物の関係に置 き換えてしまって、事物自身が社会関係を取り結んでいるようにみなすという定義です。 

石塚:マルクスはド・ブロスのフェティシズム概念を知っていたのに、物に支配される疎 外を強調したいので、攻撃面を含まないフェティシズム概念を出しています。でももう彼 の時代は恐慌を体験していました。それで資本や貨幣は人間を支配するけれど、不用・有 害になれば、廃棄や、工場閉鎖が行われていました。だからマルクスは、攻撃面を含むド ・ブロスのフェティシズム概念は重宝だなとは感じていたと思うのです。 

やすい:マルクスは恐慌を法則的に捉えて、工場閉鎖も受動的ですから、主体的な行為と しては捉えていません。だから攻撃面を含む定義を用いられなかったのでしょう。

 石塚:でもド・ブロスの場合も、喜々として攻撃していませんからね。役立たずだからぶ ったたいて無理やりやらせようとするんです。止むを得ず神様をあるいは、資本を打ち棄 てるということでは大枠は一致しています。

 やすい:ひがんだ根性からみると、神をいじめるときには快感があると思うんです。

 石塚:それはフロイト的な読みからくるんですよ。素朴民間信仰においては、ぎりぎりの ところで生活をしていて、暇にまかせて観劇的な気分でやったのじゃあないですよ。 

やすい:キリストを十字架につける前に、みんなでお祭り気分ていじめたようです。神殺 しというのは神聖な儀式でもあるんだけど、快楽面もあるんじゃないかと思います。

 石塚:ええ、もちろん信仰レベルではあるんだけれど、マルクスの場合、攻撃面の要素が ないのでド・ブロスと違うんじゃないかなといっても、自分の土俵に引っ張ってきた際、 要らない部分というのは削ぎ落とされているわけです。

 やすい:マルクスのフェティシズム論は、事物が人間の社会関係を取り結ぶという事に対 して倒錯だと言うんだから、社会的な事物を人間として捉えては倒錯だ、という擬人的倒 錯論にもなっているんです。商品や貨幣は人間関係を取り結んで人間社会を支配してしま っているという意味で、擬神というより擬人にあたるわけです。でもそれに対して人間は 有り難がって、跪拝するしかないので、物神崇拝としたのです。この論理は一見、自明に 見えて自明じゃないんです。だって経済関係というのは人間が物を作ったり、交換したり する関係だから、物が社会関係のなかで重要な役割を果たすのは、否定できないわけなん です。だから物が社会関係を取り結ぶと見なすのはおかしいというマルクスの議論は、お かしいじゃないかと思ったんです。 

石塚:非常におもしろい指摘ですよね。今まで、人間でもないものが人間扱いされるとい うよりは、ほんとは人間なのに人間が物扱いされるということでいろいろ問題にしてきた わけですね。そしてマルクスは、本来人間でもないものが人間を支配してきて、物を神様 にしているという、とにかく物を物以上に高まっていることについての批判ですよね。だ けどやすいさんは、物の社会関係が現にある以上は否定できないし、する必要ないんじゃ ないかっていう。それは言葉の上ではだまされたような気分になってね、同じこといって るんじゃないかという気がしないでもないですよ。 

やすい:「机が踊りだす」というような表現があります。社会関係を取り結んで、人間は それに支配されてしまうと、これは物なんだから人間じゃないんだから社会関係は取り結 ばないんだよと、ところが取り結んでいるように扱われている、これは倒錯なんだという 捉え方です。ぼくはそれは納得いかないんです。現実に人間は物なしに経済関係は結べま せん。経済関係というのは、確かに人間関係なんだろうけれども、それぞれどれだけの時 間がかかって、これとあれとはこれだけで交換されるという物と物との関係として了解さ れて、それに従わなければならないのですから、物と物が社会関係を結んでいると捉えて も、倒錯でも何でもないんじゃないかなと思うんです。

 石塚:だからそれはフェティシズムのポジの方ですよ。問題はそこで人間を支配してくる というところでしょう、疎外の問題は。それがネガティブの方です。崇拝一辺倒の方のフ ェティシズムを彼が使ったのは、そこにあるわけです。物同志が人格のようにやってくれ て、我々が幸福になってれば、大いに結構なことで、実際そういうことがあります。それ がポジティブ・フェティシズムです。神や人間でもないものを神や人間にしておいて利益 が得られるのなら、それならもう崇拝しちゃうんですよ。でもそれが自分たちに不利益を 及ぼすようになるので、源初的な信仰におけるフェティシズムではそいつをぶったたくわ けです。しかし『資本論』の段階におけるマルクスが意図したフェティシズムにおいては 、一方的に支配してくるのでそれは疎外だというんです。 

やすい:だからそういう場合において、ぼくがマルクスに対する批判としては、事物と人 間とは違うんだという概念定義をした上でなら、事物が社会関係を取り結ぶのは、たしか に倒錯なんだけど、それは始めからそういう概念定義があるから倒錯であるにすぎないん です。人間の社会関係について考えれば、事物の関係なんていうのは特に経済においては 前提なんです。だから事物が社会関係を結んでも、ひとつもおかしくないでしょう。

 石塚:そうです。おかしくないです。 

やすい:だから現代ヒューマニズムからは反発されますが、社会的な事物も人間だという ように定義をしなおすべきです。社会的な事物も含めた人間というものを捉えれば、事物 を人間と考える物神崇拝(フェティシズム)と見なさなくてもいいのです。 

石塚:だからやすいさんは物神崇拝というとネガのことを思ってらっしゃるからそうなる んです。物神崇拝にはネガとポジがあって、まずね、物でもないものを物とみるとか、廣 松さんで言うと、あらゆるものは物象化した世界です。例えば「ぼくは立正大学に勤めて ます。」それで「立正大学はね」といって、あたかも主語として語った場合に、立正大学 というのは本当は関係でしかないわけですよ、ひとつのね。建物の事じゃないんですよ。 「ゴーツゥースクール」のスクールというのは物ではなくて、関係ですよね。関係を指し てるだけど、一応は我々は物扱いして見るじゃないですか、そういう物があるように。そ れもね一種の物でもないのを一応人格のようにみていくのは何も悪いことじゃない、あた りまえじゃないかと捉えるのは、それポジティブ・フェティシズムですよ。ところが立正 大学がおまえなんか要らないといって、排除・抑圧してくる時に、それはネガに変わって います。それは排除しなければいけない。

 やすい:事物が社会関係を取り結んでいる場合に、それは事物といってるけれど、元々関 係じゃないかという関係に還元する議論が、廣松さんなんか特に得意なんですけれど、で も、それは物の定義の問題だとぼくは思うんです。だから物をどう定義するかによって、 それは物として捉えたらほんとは間違っているけれど物として捉えているから物象化ある いは物神化だというような議論が出てくるわけです。たとえば立正大学があって、立正大 学が社会的な存在として、いろんな関係を取り結んでいる主体になってるという場合、そ ういうものを事物と定義すれば、立正大学も事物です。例えば、物体でないと事物じゃな いとかいうような定義をしちゃうと、立正大学は事物にならないわけです。でも水なんて 分子は事物だという場合に、よく見ればこれは水素と酸素の関係なんです。水素だって陽 子と電子との関係だというわけです。やっぱり水という分子が存在して、対他的な関係を 取り結んで、主体になってる、そういうものを事物だと定義をしてもいいと思います。す ると、社会関係も社会的な事物の関係であると捉えても別にいいんです。そうしますと、 社会を事物の関係と捉えたらフェティシズムであるという議論は、成り立たないんじゃな いかというのが、ぼくの捉え方なんですけどね。ただ石塚さんの場合は、それが人間に対 して支配してくるという事に関連してフェティシズムというのを問題にされるわけですよ ね。だから、別に事物であるか人間であるかどうでもいいことになります。

 石塚:例えば、ぼくは三菱商事の社員で、そちらはNECの社員だとします。「ねえ、N ECさん」「三菱商事さん!」て、呼び合い、三菱さんとNECさんが交渉しています。 その時は、「三菱さん」「NECさん」は人格ですよ、だから本来は人間と人間の関係が 物のように投影して、三菱という関係ができているんだけれど、それがもう一回触れ合う 時に人格に戻っているんですよ。それは二重になってるでしょう。社会的な関係でしかな い三菱・NECなのに、あたかも人間のようにして現れてくるのはおかしいんじゃないか と言うには、その前に人間と人間の生産活動なり、社会的な人間関係があって、それが三 菱さんを作り上げたりしてるんです。それがまず第一の意味の物神ですよ。本来、人間の 関係であるにもかかわらず、三菱という人間の活動から離れてそれが自己運動しているよ うに見えるってわけでしょう?物在になるというのは。それが人間にとって疎遠になり、 人間を支配してくる、そういう力になる、これを哲学者に分かり易く言えば「疎外」だと いう議論になります。それが我々を支配するか、しないかを度外視すれば、我々は常にそ れをいいものとして受け入れてやってるわけですよ、「三菱さん」とか呼びかけて。だか らそれそのものはフェティシュな関係だと、ぼくは思うんです。

 やすい:これまでの既成の議論は、事物と人間は違うものであるということを前提にして 考えてきたわけです。その場合の人間というのは身体的な存在でしょう。そうすると身体 的な人間と社会的な事物があって、それらから全体的な社会が出来てるとしますと、その 場合に、主体的に社会的な関係を取り結んでいるのは身体的な存在だけで、社会的な事物 ではないと言われてきたわけです。ところが価値関係にもとづく経済関係というのは事物 の中に投下された労働の関係なんですよね。そうすると事物がそういう労働を代表してい るわけで、事物関係になっているんだと言えます。それはマルクスに言わせれば、実は労 働関係なんだから人間関係なのに、事物関係になってるから倒錯だというわけです。ぼく に言わせれば、労働というのは事物に成っているから価値があるので、そういう意味では 人間と事物の違いというのは価値によって止揚されているんです。価値関係はそういう意 味においての人間の関係なんです。だから身体も社会的な事物もみんな人間として扱われ ているわけです、実際は。それは全然倒錯的な意味での人間じゃなくて、全体的に社会的 な事物も身体も、どれも人間としての社会的な関係を結ぶ意味においては主体的な関係に なっているんです。それをマルクスはフェティシュと言うんだけれど、それは別にフェテ ィシュと言わなくてもいいんじゃないかと思います。むしろ商品・貨幣・資本の原理に支 配されて、それに熱中しすぎると、より大切なものを見失ってしまいます。その事をフェ ティシズム論を展開すればよかったんです。 

石塚:マルクスは、物を人間とみなして、「NECさん」とか呼びかけること自身は物事 の発端の部分として彼は説いています。それ自身はフェティシズムとは言わないんと言っ ても、そこから構築されているわけですのでね。ぼくなりの言い方をしますと、まずはそ ういう形で触れ合って出来上がる関係性は、物の人格化としてフェティシズムの一つの形 で、これはかえって望んでやるものです。《生み出した生産物も人間関係を結ぶ一つの身 体と考える》というやすいさんの発想は、演出されたものとして捉えれば充分納得できま す。ハイテク機器を背負った人間が、「私はこの計算を三日で全部やってしまいます。」 と言っているその時には、明らかに自分の生物的な身体以外の生産物を自分自身と捉えて いるわけです。その時は、演出しているわけですよ、そういう風に。《人間たる由縁は、 演技する者である》と言えます。これはポジティブなものとして、フェティシズムを代表 しているじゃないかと、思うんです。だけどやすいさんは、そこらへんはフェティシズム と捉えないわけですね。 

やすい:社会的事物も人間に含めていますからね。だからぼくは、宗教批判でフェティシ ズムを問題にしているので倒錯であるかどうかが基準になるんです。石塚さんの場合はフ ェティシズムをポジティブにおおらかに、肯定的に捉えられます。フェティシズムでいい じゃないかとなります。でも信仰になってしまってるとか、物なのに人間や神と捉えられ ているので、倒錯で間違いというのがマルクスのベースになっているから、そこはぼくは 倒錯じゃないとして、フェティシズム論は商品・貨幣・資本原理への跪拝の場面で展開すべ きだとしているのです。それ以前に事物が人間関係を取り結ぶということを問題にしたっ て、それはもう仕方がない、そういう関係に生きているからそれはもういいんだと、それ が危害を及ぼしてきたときにそれを切れるかどうかが大事なんだということですね。そこ はぼくと石塚さんは一致しています。

 石塚:その「倒錯」もね、価値的に捉えるべきじゃありません。本来人間でないものを人 間と捉えているのは快楽なんであって、倒錯=害悪なんじゃないんです。

 やすい:だからぼくは、その場合の本来人間でもないものを人間という場合の人間概念が 間違ってるんじゃないかと言いたいんです。 

石塚:元々それも人間だと言いたいんでしょう。だからそれは演出なんです。 やすい:その場合、演出というのはそうじゃないのを、そのように思っていることになる でしょう。 石塚:演出というのは、元々こうだと思うのがあって、別個のものを演技しているのじゃ ありません。元々のものなんてないんです。演技しているものは本物なんです。だからそ ういう意味でいうと人間なんですよ、物は。だけど必ずTPOでもって演出しているんで す、その場合。

 やすい:じゃあこういう風に考えればよろしいですか?人間がこれも人間、あれも人間と いうように演出して、事物を自己同一化するのでしょう。その場合に人間世界が広がって いきます。でもまたそれを縮めたりもしないといけません。広げたり縮めたりするときに 、人間と見なす対象が変わっていきますね。だから対象が人間に取り込まれた段階でそれ らをフェティシュだと、ポジティブな意味でね。それがネガになったら切り捨てられると 、というように考えてフェティシズムという用語を使っていったらいいじゃないかという のが石塚さんの見解ですね。 

石塚:そうですね。ただね、ネガになったら切り捨てられればね、全体としてポジなんで す。ネガになっても切り捨てられなくなったのが、ネガティブ・フェティシズムなんです 。それが超越神だったり、『資本論』のフェティシズムだったりするわけですよ。

 やすい:分かってきました、いわんとされている意味が。

 石塚:だからそのひれ伏しもするけれどやっつけもする交互性を保っているのが、本来の フェティシズムなんです。だからポジティブ・フェティシズムの方にマイナーなものがな いわけじゃないんですよ。

 やすい:じゃあ社会的事物も含めて人間と捉えるのは、別に倒錯とはいわないんですか?

 石塚:そういう風に演出していること自身は、フェティシズムの一つの特徴にはなるんで す。だから表現が難しいですね。

 やすい:科学的な議論をするときに宗教的な立場に対して、倒錯的だから間違いというよ うな頭があるんですが、石塚さんがフェティシズム論を展開されるときに、倒錯じゃない けれどフェティシュと考えてもよいということになると、フェティシュと捉えることはい いことだということになりますね。

 石塚:外国に行って、外国人に対して「私は日本人です」と言ってるのは、人との関係の 中で、これはフェティシズムなんですよ。自分が民族を代表しているように言ってる自分 を、ほんとは民族なんてないんだと言ってる議論が一方であって、しかし外国に行って自 分は日本人だといってる自分があるのはいいんです。それは善悪とは関係ないんです。だ けどそれが日本人以外のものはどうのっていう排外主義になってきたときに、それがネガ の方に切り替わるわけでしょう。

 やすい:ぼくの『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』(青弓社)のひとつのポイン トなんですが、マルクスは価値を「抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)である」と捉え ていて、それが物に付着するとし、それで物がフェティシュとして商品化されて、社会的 関係を結ぶと理解しているわけです。『資本論』全体の論理展開の中で検討しますと、こ の表現をぼくはそのまま比喩ではない、マルクスは本気でそう考えていると受け止めて、 それなら「つきもの信仰」じゃないかと思ったわけです。つきもの信仰は、霊の段階に達 してますからフェティシズムを脱却していますが、非常に興味有るフェティシズム周辺の 信仰ですね。そういうようにマルクスを読むのはひがんだ読み方ですかね。

 石塚:マルクスはド・ブロスのフェティシズム論を読んだにしては、最悪のところまでい ったってとこですね。かなり自分の型に嵌まって、フェティシズムのなんたるかをかなり もう、その場面では忘れてしまっています。商品世界ではこれは商品フェティシュとして 作られるんです。頭に発想したときから、それそのものがもうフェティシュなんですよ。 付着するものじゃないんですよ。だから付着物を丹念に取り払えば、それは人間生活に豊 かさだけをもたらすものというようにはならないんです。 

やすい:だから労働というのは具体的有用労働と抽象的人間労働のふたつの性格に分けて られるのだけれど、それはあくまでも生産物を生み出したものとして、使用価値面に凝結 したものが具体的有用労働で、事物の価値面に凝結したのが抽象的人間労働であるわけで す。ですから価値はあくまで事物の性格だと捉えた方が、まだフェティシズム論としては 正しいんだということですね。それが『資本論』研究は百年以上やられているんですか、 「ガレルテ」の解釈が全然なっていないですね。向坂さんは「膠質物」と訳されたのです が、それ以外は「凝結物」とか「凝固物」とかで。 石塚:そうそう、もうパターン、観念がそういうとこしかないですから。 やすい:向坂さんの場合はつきものとして見たんですかね?

 石塚:と思いますね。ド・ブロス的なフェティシズムの議論からいくと、付着するのはフ ェティシュじゃないですよね。マルクス弘法さん、筆の過ちというか、転倒のフェティシ ズム、つまりネガのことしか頭にないときに、あの議論をしたものだから、付着というよ うな発想になったんじゃないかな。元々払い取りたい方を頭に置いて書いた本でしょ。

 やすい:ぼくは「ガレルテ」で「つきもの信仰」じゃないかと思ったとき、びっくりしま したね。そのとき笑ったんですよ。マルクスは科学者ですよね。そんな迷信になんか陥る 筈ないと思ったんです。だから単なる比喩じゃないかと思って、『資本論』を読んでいっ たら、つきものとしての価値を前提にしたような表現が一貫して流れていると読み取れた んです。これは本気で書いてるなと思いました。フェティシズムや偶像崇拝を迷信として 斥ける時、つきもの信仰は有力な説明原理なんです。何か祟りがありますと、修験者は物 自体は無実で、物に憑依している悪霊の祟りだといって、その悪霊の正体を暴きますね。 イエスの魂の医者としての治療法は、ほとんど悪霊払いなんです。ですからキリスト教成 立に果たしたつきもの信仰の役割は、意外に大きいかもしれませんね。そういうユダヤ教 ・キリスト教的な伝統からマルクスも自由じゃなかったのかと感じたんです。 

石塚:そうですね。あの場面ではマルクスも伝統に乗って書いてしまったんです。だけど ド・ブロスはカトリック批判になってるので、フランスでは出せなくて、スイスで匿名で あの本を出しているんです。それから二百年たってマルクスが書いた時も、そういう伝統 に乗ってつきものという書き方の方が、無意識に書いたんですが、書き易かった。そうな るとフェティシズムからは離れるんですが。

 

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