6フェティシズムと精神分析
やすい:町口哲生さんの「モードにおけるフェティシズム」は、ボキャブラリィが非常に豊富 で、楽しい論文なんです。彼は山本燿司のアンチ・モードに強い共感を示されていて、流 行に流されないで、廃墟の中に未来への可能性をみる「哀悼的想起」をキー・ワードにさ れています。それは過去になったものに普遍性を見いだして、そこに愛着もっていくとい うものです。そこは良かったんですが、ただ町口さんのモード論とセックス論は表裏にな っているのです。深い究極の愛というのが、彼が引用しているエレーヌ・シクスーの文章 にあります。「究極の愛とはお互いの皮膚を切り裂き、内部から血を激しく叩きつけ、甘 美な深淵(夜)に身を投じること」「触覚に臭覚にこの死の領域の案内役を委ねること」 というような叙述があるんです。これにぼくはショックを受けました。セックスをいたわ り合って、互いに肌を接触させ合って感じ合うとか、結合における陶酔とか、そういう融 合感覚で捉えていたんです。ところが町口さんの場合は、「内部から血を激しく叩きつけ る」とか「切り裂き合う」、服飾用語でいうとカッティング(裁断)ですね、それでイメ ージされているんです。こんな愛し方はどうですか、激しすぎてね、ちょっと危険な感じ がしたんですけれど。
石塚:手術した跡があるか見ないとどうとも言えません。町口さんが実践家ならショッキ ングですが、レトリックだったり、シクスーの文章に感動して、そのまま表現したのかも しれません。でもこれ読んで、最初に印象を受けたのは、まずド・ブロス的なフェティシ ズムの定義が誤っています。「呪物崇拝、つまり石や骨など地上の物体や物質に霊力や生 命力が宿る」とありますね、これはつきもの信仰ですよ。偶像崇拝やアニミズムで出てく るわけです。ド・ブロスだったら、石や骨など地上の物体や物質そのものが霊や生命なん です。「宿る」となるとガレルテとも通じて付着する、離れることもあるんです。その後 のフロイトのフェティシズム定義についての理解は間違ってないですね。ただしド・ブロ スでは、フェティシュは代理物ではありません。でもフロイトの定義に従っているものと してはこの論文はいいですよ。ついでに言っときますとフロイトは恐らくド・ブロスを読 んでいません。読んでもなくて、逆に自信をもって喋っているのです。
やすい:じゃあド・ブロスとフロイトの違いについて触れておいてもらいましょうか。
石塚:カッティングの箇所は印象深く読みました。近親婚タブーの解かれたとき、原ホル ドに戻って、親子・兄弟姉妹を問わず、あらゆる者がオルギー(乱交・夢中)の状態で性 交します。そこはもう一切の束縛がないわけで、殺人も殺人にならないですよ。その結果 死ぬのも神に召されたようなものもで、そんなに問題にりません。肌触れ合うどころか血 を飲み合ってまでするそういう交わりは、むしろ原始フェテイシズムにはとても濃くて、 トーテミズムの時代にはそれが演出されてもっと濃くなって、生贄に捧げた動物の血をみ んなで一瞬のうちに飲むんです。骨以外みんな食ってしまいます。そういう儀礼があるの で、最も根源的なトーテム、フェティシズム的な場面を、彼は感じた上で、文章にしてい るのかなと思うんです。そこまでいくとね、フロイト、ド・ブロスを含めたフェティシズ ムの重要な部分を、町口さんは展開されていることになるのです。だからぼくも久々に血 湧き肉踊るという感じをこの部分で受けました。
やすい:そういうものが性の中に秘められた願望というか、本来の姿なんでしょうか?深 くなっていくと、傷つけ合うとか殺し合う、あるいは食べ合うみたいになりますね。そう いう部分が性から切り離せない性の中の根源的な要素だと感じられますか?
石塚:そう、儀礼においては性行為は生物学的に子供を生むことと結びつきません。儀礼 の要素が強かったので、生きるとか死ぬとかはよくあるものなんです。ある二人の男女が 血族が同じかどうかは、トーテムを見ないと分からないんですよ。実の兄妹であるかも知 れないんだけれど、トーテムが違っていれば、別の氏族に属するわけです。それを決定す るのは儀礼で迎え入れたかどうかです。女を略奪して、自分の部族の儀礼を施せば、その 部族の人間になって血族と見なされるのです。
やすい:フロイトの場合のフェティシズムというのは、人間の体の一部分や衣類を対象に する、性器どうしの結合以外の性愛を主に意味しています。だからフェティシュはファル ス(陰茎)の代替物になっています。同性愛を防ぐというのもそこからきたと思います。 本来性器結合がセックスの正常な形としたら、それ以外の形をつい追ってしまうというこ とがあるんです。正常な形のセックスが抑圧されているときに、ついそういう物の方に行 くんじゃないかと思うんですがね。
石塚:あるいは抑圧された原風景が出てきてしまうということでしょう。
やすい:フェティシズムという場合に、生きてる人間よりも死んでいる人間を愛するネク ロフィリア、あるいは生身の人間よりも人形やマネキンを愛するということがあります。 それはセックスには根源的に生への欲求だけではなくて(結果として新しい生を生み出す のですが)、死への欲求というのがあって、それでセックスも死を演じるという意味があ るからだと言われます。よく「死ぬ!」とか叫びますよね。死と再生の儀式でリフレッシ ュするというのが、人間の欲望にあって、それがエロティシズムを構成しているので死体 の代替に死んだ物を愛するフェティシズムが生じるんだといわれます。またモード論と関 係するんですが、服もカッティング(裁断)で、体の線の出し方次第で魅力が出てくるわ けです。ところでカッティングと死も結びつくと解釈できます。部分愛というのもカッテ ィングと結びつきますね。ということはバラバラ事件と繋がりますね。だから死への欲求 は、殺人衝動とも関係があると思いますが、そういうイメージが性欲の根源みたいなもの にあって、それが性フェティシズムを説明しているような気がするんです。そういうよう に本当に言えるのか、言えるとしたら怖いような気もするんですが?
石塚:深層心理としては言えるのでしょう。近親婚タブーを設けたのは、そんなことばか りやってたら、生産性が上がらないからです。ある時期を限って、「それやれ!」という わけです。だけど時期が外れたら、また接近するな、妹を見ても目を覆えとか、母親を見 ても言葉を交わす場合は百メートル離れていろだとかのタブーを設けておくんです。タブ ーを取り払った時は「ハレ」で、それは重要なことで、その為に生きているということも あるんです。現代ではそういう意味での儀礼としての近親婚タブーはなくなったけれど、 深層心理の中に「ハレ」を求めて、オルギーを求めて、噴き出すようなものを求める源初 的な衝動が人類学の研究の成果に照らせば、あると思うんです。
やすい:死や殺人欲求を演技して昇華して、代償するようなところが、セックスの本質に 本当にあるんですかね。
石塚:セックスは儀礼ですからね。儀礼というのは何も神主がきて、「かしこみ、かしこ み」てやる必要はないんです。それは心の持ちようなんですから。プツンと切れてしまっ たら、プツンと切れるのも儀礼ですが、そうすれば世界は全てそういう世界に見えます。 それから我々は死んだらお終いと考えるけれど、そのバージョンでは死は意味が全然違い ます。北欧神話のオーディーンなんかはそうだけど、善神だろうが、悪神だろうがみな死 に絶えた人です。だから死というのは横滑りはしても、上下に行ったり、消滅したりはし ないという発想です。それで死は永遠獲得の一番いい手段だと、望んでいくわけです。
やすい:アメリカで宇宙での生まれ変わりを信仰したカルトの集団自殺がありましたね。 やはり、現代人の根底にもあるということですね。やはりセックスは無意識の欲求を代償 するという性格が強いんですか?
石塚:尾崎豊が死ぬと、殉死したりしたでしょう。荻野目慶子のアパートで、プロデュー サーが妻子があるのに、死んでたでしょう。あの時に死ぬのは、永遠の何かを掴んじゃっ てる部分があるのかもしれません。そういうのは我々には何も理解できません。でもそれ はあるんです。というのは町口さんの読んでると感じますよね。
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