9組織体フェティシズム    

石塚:やすいさんは「グラムシのフェティシズム論」(『情況』7月号)で「組織体をフェティシュとして倒錯的に崇拝し、それに精神的に依存してしまうところを問題にすること以前に、組織体という実体的な捉え方自体がフェティシズムだということになってしまえば、フェティシズムは二重になってしまう」と論じておられます、これはぼくは二重でいいと思います。

やすい:ぼくは別に組織体が存在するということは、現実に立正大学があるし、それでいいんじゃないかと思うのです。だからその立正大学が、ほんとの大学であるかどうかということで、立正大学は「大学」という名前が付いてるから、それだけの理由で、これは大学だと思ったら、これは組織体フェティシズムになってしまうというんです。

石塚:そこで問題なのは、じゃあ何が大学かという理想の雛型をやすいさんがもっているんじゃないかということです。それに照らすと、立正大学なんて大学の体をなしていないということになってくるんです。それこそがネガティブ・フェティシズムじゃないかなと思うんです。

やすい:それはグラムシの理論からきているわけです。

石塚:「相応しい」という言葉をつかうというのは、やすいさんにはもう大学とはこういうものだというものがあるんです。大学教員とはこういうもんだ、研究して、業績上げてというのがある。そこから照らすと今の大学教員はなってないとした場合、その大本の「らしい」という、今もうくそみそにいわれている「らしい」というのを、依然として守っておられることになります。

やすい:教会にしても党にしても、そこで構成員が自分なりの役割を果していないにもかかわらず、教会なり党なりが、教会や党としての役割を果たしてくれると期待してしまうところがあるでしょう。しかしそんなのは幻想なんです。自分自身は何もしていないのにどうして教会とか党がちゃんとした形で存在できるんだ、できないだろうというとグラムシは言うのです。「大学」という名前だけ付いていると、大学だと思っている。

石塚:実態としては、内容が伴わないものが、内容としてあるかのように言ってるそれが転倒だというわけですね。「集団的組織体の抽象、一種の自立した神性が存在するように考えがちである」とありますね。問題は、自分の代わりに自分にとって利益なことをしてくれていれば、何も問題ないでしょう。

やすい:そうですね、期待通りだったらいいんです。その場合にグラムシが言いたいのは、組織体と自分を切り離したら駄目なんだよ、自分自身が組織体の現れで、自分と組織体を一つとして捉えなければいけないのに、捉えなかったらフェティシズムになってしまって、組織体がひとりでにはたらいて自分の願望を叶えてくれると思い込んでしまう、この思い込みがいけないんだということです。ところで教会というのは、実はその思い込みに依拠しているんです。だから教会の構成メンバーは教会に対して主体的にかかわったり、教会の運営にいろんな意見を言ったりされることはかえって困るんです。言われてしまうと教会は潰れてしまうというわけです。だから教会に属すればそれでいいんだ、教会の命令はなんでも聞きなさい、そうでないと神様に罰せられますよというわけです。こうして主体性だとか参加だとかの民主的な契機を全部否定した方が教会は成り立つんです。だから教会こそフェティシズムの典型なんだという議論をグラムシが展開していたんです。 彼は、この組織体フェティシズム論を当時の共産党の組織問題に結び付けたんです。ボルディーガが「民主的集中制」ではもはや無理だとし、「有機的集中制」を主張していました。反ファシズムの非常事態だったですから、党中央のヘゲモニーが重要でしたので、時と場合によれば、党中央は党の代表だからたとえ党員の過半数が反対であっても、党全体を指導できることにすべきだと言うのです。つまり指導者原理の押しつけなんです。グラムシはこれに対して、勝手に指導者がやってしまうことになるので、党員に参加意識がなくなって組織体フェティシズムに陥ってしまうというんです。たとえ党が瓦解するように見えても、民主集中制は守るべきであるとしたのです。これはファシズム化への歯止めですね。ソ連の共産党はすでにスターリンと一体化してしまっていたのですから、スターリンに対する批判にもなってると思います。

石塚:過半数が賛成すればいいというのも問題で、支持が増えて百パーセント近い支持になっちゃうと、その瞬間にみんな一切政治参加をしなくなるでしょう。百パーセント信頼できる人がやってくれるんだから。代議制では指導者に政治を任せる体制ですよね。安心して自分から絡まなくなってしまうんです。これが実は大きい問題です。だから汚職議員は追放しましょうというけれど、汚職議員がいた方が我々は目を光らせるんですよ。

やすい:我々は、家族や集団に対して、国家やコミュニティだけでなく、学校だとかクラブやサークルや研究会などにも強いアイデンティティを感じてしまうわけです。その為に一所懸命頑張るでしょう、それで生き甲斐もでてくるんです。何のために我々は働いたりするかというと、家族生活を守るためとかが大前提みたいなものであります。ほんとに人間一人ずつバラバラで生きているのだったら、そんなに頑張らなくてもいいじゃないかということがありますね。ですから現実社会の生産性を維持するためには、家族やいろんな組織も必要だなということになります。でも組織体の為に頑張りすぎると、自分を忘れてしまって、家族や会社等組織体の為に自分が潰れてしまうことがあります。逆に言えば、仕事に一所懸命の人は家族を潰す場合もあります。だからどこにアイデンティティを置くかというのはその人によって当然違いがありますが、どこかの組織体原理にアイデンティティを置きすぎて、つまり組織体を絶対視して跪拝する組織体フェティシズムに陥って、その人個人の精神構造が壊れてしまう問題はあります。
 でも組織体を組織体として実在すると考えること自身がフェティシズムだということになりますと、やはりぼくは納得できません。だって家族も研究会も学校も会社も現にあるわけですから。それが石塚さんの場合は、そういうような関係行為の中で家族がある、一緒に研究したりする中に研究会があるのだから、そういうような関係行為の中で組織体があると考えるということをフェティシズムと考えたらどうかということですね。それはポジともネガともなりうるわけですよね。その上で、そこで精神的に完全に依存してしまって抜けられなくなったら、ネガティブ・フェティシズムで、それを冷静に捉えられたらポジティブ・フェティシズムで、うまくポジティブに生きていくのが「善く生きること」だと仰るわけでしょう。

石塚:そうなんです。アイデンティティ確立の為に組織は不可欠なんですね。ところが組織というのは、元々自分にとっては自分自身と他者との関係のなかでしかできないわけです。しかしそれを自分自身だと思います。そこに転倒があるんですよ。しかし組織を自分自身だと見なすことによって、自分はなにがしかの行動に出れるんです。そういう意味では組織と自分を一体化させる必要があるんです。ところがその一体化した自分が、自分の思うがままの行動をとれてる間はいいんだけれど、それが日本人だから鉄砲をもって中国人を殺すというときに、ハッとして、俺は人を殺すなんてこと考えてもいない、だけど日本人だから鉄砲もって撃たなきゃいけない、ということで組織と自分にギャップができて、いやいや従わざるを得ない時に、ネガティブ・フェティシズムになるわけです。だけどそういう組織を取り外してしまった組織なしの自分なんていないんですよ。いないんだけれどいろんな面での側面を結局捨象して、自分というのを置かないと始まらないんです。そこで自分の本質というのを置くわけです。しかし他者との関係では必ず組織が介在するんです。

やすい:その場合に、いろんなアイデンティティをいろんな組織に置く場合に、家族としての自分とか、兵士としての自分とか、会社員としての自分とかがあるわけです。そういうことはアイデンティティの置き方として別におかしくないわけです。それは倒錯には当てはまりません。ですから人間は、自我というのを必ずしも身体的な自我に限る必要がないわけです。つまり自分自身を身体に閉じ込めて捉えるんじゃなくて、もっと拡大して捉えることができる存在です。自分を民族として、人類として、地球生命=ガイア的な捉え方もできます。そう捉えることは倒錯じゃないと、ぼくの場合は思うんです。ところがある範囲に自分を固定しても、組織体との軋轢が強くなるとそこから抜けなければなりません。そうすると抜けられるものまでも自分だと置く必要はないので、それを自分と置く意識は倒錯的と言ってもいいんじゃないかということですね。

石塚:だからその倒錯というのには、価値感をやすいさんはお持ちなので、とにかく倒錯というのはいい言葉と思っておられないでしょう。そういう雰囲気がでちゃうんですよ。組織体や自我があるようにとりあえずそう了解しちゃうということなんです。ほとんどは無意識のうちに起きてることなんです。

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