第一章 労働本質論は棄てられたのか

      本質は内に住みたる抽象か、関わりの中現見据えよ

佐々木:やすいさん、田辺さんと人間論で対談されている中で、マルクスの人間観についても微妙な問題に色々触れておられるようなので、今日はマルクスの人間論について整理していただこうと思いまして伺った次第です。

やすい:田畑稔さんの『マルクスと哲学』(新泉社)がもうすぐ(二〇〇四年六月末)出版されますので、それを熟読玩味してからでないと、軽軽しいことは言えませんが。

佐々木:田畑稔さんとはやすいさんは「哲学止揚論争」をされていますからね。もちろんそれはそうでしょうが、暫定的にでもお願いします。まずマルクスは人間の本質を「労働」だとしていますね。『経済学・哲学草稿』(一八四四年)の段階では否定できません。

やすい:ええマルクスが「四つの疎外」で類的ヴェーゼン(本質)というのは、明らかに「労働」を意味していますからね。

佐々木:『資本論』(一八六七年)では労働は人間の本質だとは言っていないのですか。

やすい:『資本論』は資本主義経済の原理を研究したもので、人間の本質を論じるのをテーマに掲げているのではありませんからね。商品の本質は価値で、抽象的人間労働は価値実体として捉えられています。私は、商品論を人間論として捉え返すべきだという議論をしているわけですが、マルクスが『資本論』の中で人間の本質とは何かをはっきりと述べていたという記憶はないですね。

佐々木:それで問題になるのですが、あの『フォイエルバッハ・テーゼ』(一八四五年)の「フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個人に内住する抽象物ではない。現実的には、社会的諸関係のアンサンブル(総和)である」という命題です。これは人間の本質は労働ではないということを意味しないのですか。

やすい:それが田畑さんの『マルクスと哲学』では大きなテーマになっていますが、田畑さんによると、「哲学者たち」は、人間の本質を個別存在に内住する抽象として把握してしまって、「現実に実存する、活動している人間たち」「彼らの所与の社会的諸関係」「彼らの現前の生活諸条件」などに対する根本関心がどうしようもなく欠落してしまうと、マルクスは指摘しているそうです。

佐々木:批判されているのが『ドイツ・イデオロギー』で批判されている若きドイツの哲学者たちのことなのか、それとも哲学者全体なのかで、マルクスのいわゆる「哲学」批判の内容が分かりますね。

やすい:「哲学者たち」は、プラトンのイデア論のようにイデアを「分有」しているとか、ヘーゲルの「即自」のように本質を捉えているというわけです。ヘーゲルは本質を対他関係への反省から規定していますね。それ自体に即自的に内住しているとしているわけではありません。その意味では私は批判されているのはいわゆる「哲学的批判家」たちであって、理念から現実を批判するだけで、現実の諸関係をしっかり分析して具体的な変革の方法を考えない偏向を批判していると思います。

佐々木:マルクスもそれまでは、哲学を実現する立場に立っていました。それが急転直下、「哲学」批判を言い出したのですが、哲学的理念で外から批判するだけでなく、現実の諸関係に内在してそこから具体的に変革の論理を導き出すべきだということですかね。

やすい:労働本質論に関してですが、人間は労働によって自己の能力を発揮し、生産物として実現するわけです。この「労働」する能力を人間ならだれでも持っているという意味では、「内住」という捉え方も可能です。でも現実的には、だれもが労働するわけではありません。また労働者階級はまだ労働力のほんの一部でした。具体的には多様な立場と種類の労働があったわけで、現実の社会関係からどのような社会変革の構想が立てられるか考えなければならないのです。あるべき労働の姿から社会を批判しても高踏的で空振りの批判に終わってしまいます。ですから「人間の本質は個々人に内住する抽象物ではない」わけです。それで「現実的には社会的諸関係のアンサンブル」なのですが、だからといって、このようなマルクスの表現が、労働本質論の否定になっていると捉えるのはとんでもない誤解です。

佐々木:田畑さんたちは、当時のマルクスは、哲学はどうしても、個々の具体的な事物は理念を宿したものとして、その理念を実現すべきものとして捉える学問になってしまうと見抜いたというのでしょう。たとえば現実の様々な社会矛盾からの人間の解放を問題にする場合、人間の本質とは何か、それは理性であり、労働であり。類的共同性であるとすると、非理性的であり、労働が疎外されており、抑圧と搾取に喘いでいる人間たちを、非本質的、非本来的な理念にはずれたものとして高踏的に批判して終わってしまう。そういう「哲学」的良心は清算すべきだということですね。しかしやすいさんは、それでも人間の本質は理性であり、労働であると言われるわけですか。

やすい:いや、私の立場は、人間の本質は理性であり、労働であり、社会的存在であり、言語使用であり、その他であるという考えで、どれか一つに絞る必要は全く認めません。ですから、マルクスがその中で社会的諸関係のアンサンブルというのを指摘したからといって、労働本質論が否定されたとは感じないわけです。

佐々木:それは勝手かもしれませんが、マルクスは「個々人に内住する抽象物ではない」と言っているのですから、「理性」「労働」「言語」などの抽象的な規定は、人間の本質規定としては、マルクスは取らないわけでしょう。

やすい:それは解釈次第ですね。「理性」も「労働」も「言語」も現実的な社会関係の中ではじめて成立し、機能するのですから、「個々人に内住する抽象物」などではないのです。ですからマルクスが批判したヘーゲル左派の人たちはどうも「個々人に内住する抽象物」として人間の本質を見なしているとマルクスは感じたということです。現実的な社会的諸関係の中で、理性や労働や言語を問題にすべきであるという捉え方をマルクスはしていたと解釈することもできる筈です。それにマルクスは人間の本質を労働や社会的諸関係の総和に見出したことはたしかですが、理性や言語やその他が人間の本質ではないという言い方をしたことがあるでしょうか、私の記憶ではありません。何が人間の本質かは、人間を問題にするそれぞれの領域で当然異なってくると思われます。

佐々木:理性が本質だという場面はどうですか?

やすい:プラトンは魂の三分説で、頭に入った魂である理性と胸の魂である気概、腹の魂である欲望のうち、最も人間が卓越しているのは智恵を発揮する理性だとしました。もちろん人間は智恵が他の動物に比べて圧倒的に発達しているので理性本質説は当然です。
 労働が本質だというのは、生産活動において人間は労働によって生産物を生み出して自己を生産物として実現することで特色を発揮しています。仲間のコミュニケーションの手段として、人間は言語を遣う事に特色があるので言語本質論も成立します。
 これらの本質論を違う場面で使うと混乱します。たとえば生産の場面で人間の本質を問題にする時、生産には理性も言語も必要だからといって、労働ではなく、理性や言語を人間の本質だと言い張っても生産的ではありません。コミュニケーション場面で、労働によってコミュニケーションが発達したから労働が本質だと言い張って混乱させても顰蹙をかうだけです。

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