第二章 疎外論の払拭について

             疎外論あるべき姿論じたり、歴史は生のせめぎあいかな

佐々木:それでは「哲学的良心の清算」という意味が、哲学を実現するという立場から哲学を止揚するという立場への転換を意味すると田畑さんは言われるわけですが、廣松渉の場合は、それは疎外論の清算、観念論の清算という意味だったわけですね。

やすい:労働本質論から社会的諸関係のアンサンブルが本質だという本質論の転換という意味では廣松渉と田畑さんは一致していますが、廣松さんはそれを哲学一般の止揚とは捉えずに、既成の哲学の超克は新しい哲学の宣言だとして、近代を超克する哲学の成立をマルクスに認めているわけです。

佐々木:マルクスは、ヘーゲルの自己疎外の論理を労働の論理として受け止めて、「疎外された労働」の論理を構築しました。ですから疎外論の払拭によって、人間の本質を労働と捉える論理も払拭されたと廣松は解釈したのでしょう。

やすい:そうとしか考えられませんが、だとしたら廣松さんも軽率でしたね。そこには長年にわたって人間の本質は何かを議論する場合、それぞれの論者は択一的な答え方をするものだという思い込みがあったのです。特にマルクス研究者の間にはそういう固定観念があったと、私の印象では思います。「社会的諸関係のアンサンブル」という規定が現れると、これがマルクスの人間本質規定で、労働本質論は棄てられたと受け止めるわけです。「人間に内住する抽象物」としての「労働」を本質とする人間観は批判され、超克されたというわけでしょう。

佐々木:疎外論の払拭については、やすいさんは「青春の甘きすっぱき疎外論いちど棄てたがまた拾いきぬ」と詠われていますね。一時は廣松の切断説を採用されたけれど、経済学批判期つまり『経済学批判要綱』『経済学批判』『剰余価値学説史』『資本論』などの疎外概念の使用例を表示されて、後期マルクスに疎外論は生きていることを実証されています。

やすい:それは問題領域の違いにもよるわけです。経済学的な原理を問題にすれば当然、生産・流通・消費の仕組みが問題になりますが、基底的には労働生産物が交換される原理をはっきりさせなければならないわけで、労働価値説に内在して行うしかなかったわけです。その際、労働者の立場に視点を置くとどうしても、労働生産物が労働者のものとならず、労働者に外的なものとして敵対してくる疎外や、資本家による剰余価値の搾取が問題にならざるを得ないわけです。

 一方、唯物史観によって歴史的展望を切り拓こうという問題意識からは、あるべき労働の理念から現実を批判することより、歴史的現実に内在した社会的諸関係の分析が課題だったのです。それで「疎外」というタームにお呼びがかからなくなった。その変化があまりに掌を返したように激しかったので、「疎外論の払拭」という印象が強すぎたのです。

佐々木:労働は、主体の側の理念を生産物に対象化して実現するわけですが、それが現実の生産物になってしまって、主体から離れると独立して外的なものとして立ちはだかります。それで経済的諸関係が外的な機構としてできあがって、抑圧的に主体を圧倒するわけで、これが疎外ですね。それで生産物の本質が労働であること、自己自身の姿だと認識して自己のものに取り戻さなければならないということになります。こうした論理はヘーゲル的な自己疎外の観念論そのものであるわけで、疎外論から唯物史観への転換は、観念論から唯物論への転換であり、マルクス主義の確立だという解釈が元々あったのでしょう。

やすい:ええそれは廣松登場以前からのオーソドックスなマルクス解釈だったわけです。ただマルクス主義を後のマルクス主義の教程から、唯物論対観念論の対立図式からだけ捉えていたので、観念論というだけで克服された発想だと決めつけられてしまうのです。しかし労働が、理念の対象化であるというのは労働の本質ですから、それが観念論であるなら、観念論でもいいわけです。唯物論でなければならないというのは、法や制度やイデオロギーなどの上部構造の土台に経済的諸関係があって、それによって上部構造が規定されていることを忘れてはならないことなどですね。

佐々木:やすいさんが最近強調されておられる「哲学の大樹」ですね。たしかに『経済学・哲学草稿』でも唯物論でも観念論でもないという表現があったりして、解釈不能になったりしていたわけですが、廣松渉の登場で既成の弁証法的唯物論が根底的に問い直されたり、冷戦終焉後は社会主義世界体制の崩壊などで唯物史観の図式そのものが破綻したというか、全く信用を失った格好ですよね。その意味では、疎外論が観念論だから克服されたという発想はやめにしようというのは説得力が出てきたようですね。

やすい:ええ、ですからマルクスが、観念論だと批判したり、唯物論だと批判したり、哲学的な姿勢を批判したりしていても、それがどういう場面で、どういう問題意識の下で行われているかを見極めないと、それを観念論自体や唯物論自体、哲学自体の否定や克服とみなすのは早計なのです。

佐々木:もっと大胆にいえば、たとえマルクスが何を考えていたとしても、それは一時の気の迷いであったり、回り道であったりすることもありますし、間違っているマルクスは批判すればよいわけで、マルクスはマルクス、自分は自分ですよね。あくまで哲学するのは自分だから。

やすい:もちろん当然です。ただしだからといって簡単に決めつけたり、軽くあしらったりしてはいけないわけです。マルクスはその時代の人類の苦悩を背負って悪戦苦闘しているわけですから、マルクスに内在して、マルクスに負けないくらい苦しんだ末でないと、こちらの発言に重みがでません。

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