第三章 労働と疎外

         労働は己の力物にして示したること喜ばしきや

        対象の中に己を喪したり、働くことは疎外なりしか         


佐々木:労働本質論にはポジティブなタイプとネガティブなタイプがあります。対象に働きかけて、それを変革して獲得するという意味では、自己実現ですから素晴らしい本質なのですが、他方では労働は、そうしなければ生きていけない労苦ですね、これは否定的な本質なのです。『バイブル』では楽園では労働の必要がなかった。あたかも子宮の中のようにすべて用意されていたわけです。それが罪に堕ちて、エデンの東に追放されると痩せた土地を一日中働いても働いても貧しい暮らししかできなかった、まるで労役のような人生なのです。明らかに労働は神の罰として意識されていたわけです。

やすい:マルクスの労働論も労働を対象変革活動であり、自己対象化、自己実現として捉えるポジティブな面と、生産力の発展によって必要労働時間を減らしていくというネガティブな問題意識の両面があります。

佐々木:「疎外された労働」というのもネガティブな労働観ですか?

やすい:いや、「疎外された」というのは本質が発現できていないということですから、「労働」は本来自己実現で肯定的なものなのに、疎外されて自己喪失の活動になってしまっているということですから、「疎外された労働」は否定的な労働ですが、労働自体はポジティブに捉えられているわけです。

佐々木:労働は対象化、外化ですからそれは必然的に自己にあらざるものに自己をしてしまうことになり、疎外を伴わざるをえないのではないですか、ヘーゲルの自己疎外論ではそうなるでしょう。

やすい:仰るとおりです。そこがフォイエルバッハの人間学的唯物論の立場を継承しようとするマルクスにとって、ヘーゲルの観念論に対する不満でもあったのです。つまりヘーゲルの主体は結局自己意識であり、自己は自己であるという抽象だったのです。ですから意識が自己を外化し、対象化して自己にあらざるものを定立したとき、それは具体的な事物の形をとるわけですが、自己にあらざるものとして主体は疎外を感じます。そこで対象の他在性を否定します。これは本来自己である意識の対象化であった筈で、本質において意識である筈だとして、他在にあって自己にある意識に還元するわけです。つまり対象としての生産物は事物としては主体ではないものでしかないわけですね。ところが主体を生命的な身体として捉えていますと。労働生産物は自己の身体的能力の対象化であり、身体のうちに獲得された自然として、身体の延長、人間的自然として捉えられるわけですから、対象化はそれ自体では疎外ではないのです。

佐々木:それでは先ほど言われた自己疎外論は観念論だという議論と矛盾しませんか、自己疎外論にも唯物論的な自己疎外論があることになってしまいます。

やすい:そこはダイナミックに捉えていただきたいですね。自己疎外論は理念の対象化、実現という意味で観念論的な構えなのですが、主体を唯物論的な自然的身体と捉えることで、人間的自然の立場を基礎づけることもできるわけです。

佐々木:そうすると労働にも二つのタイプがあることになりますね。必然的に疎外でしかない労働と、それ自体では疎外されないで済むかもしれない労働と。

やすい:それは素晴らしい分析です。ヘーゲルとは違ってフォイエルバッハやマルクスにとっては労働生産物として自己を対象化すること自体は自己実現であり、自己疎外じゃないのです。もちろん満足の行くように創れない場合は自己疎外になりますが、一般的には疎外ではないのです。むしろ自己が身体の限界を超えて拡張しているわけですね。

他方で生産物に価値を対象化する場合は必然的に自己疎外になります。価値は生産物の具体的な有用性を捨象し、抽象的な価値に還元することによって見出されるのです。この価値を産む主体は、自己対象化ですからやはり価値なのです。つまりヘーゲルの自己意識に当たるのが商品の本質である価値なのです。しかし価値は、価値という抽象では自己を示せませんから、具体的な有用物を生み出す具体的有用労働として働いて具体的有用物を生み出すわけです。しかし価値は元々具体性の抽象ですから、具体的有用労働は抽象的人間労働に還元されるための仮の姿でしかないわけです。マルクスはヘーゲルの自己意識の疎外を抽象的な自己意識の自己対象化として捉え返したのです。つまり抽象的な労働の原理として受け止めていました。それがベースにあって『資本論』の「抽象的人間労働」というターム(用語)が生まれたという解釈をしています。これは私の修士論文『労働概念の考察』のテーマでした。

佐々木:かなり錯綜した議論になっているようですね。『資本論』の商品論のレベルでは「疎外された労働」はお呼びでありません。価値形成が問題なのですから、そこに疎外された労働を抽象的人間労働に読み替えた議論をつっこんでこられても、理解しがたいのじゃないですか。それに価値を産む主体が価値というのもおかしい。価値を産むのは抽象的人間労働ですから、その主体は人間です。

やすい:それでその商品生産の主体としての人間は、商品の他の商品に対する価値支配力である価値として自己を示さなければならないので、生産物に自己である価値を対象化するわけです。つまり商品の本質である価値を自己の本質としているので、人間は商品社会においては商品であるというのが、院生時代からの私の「人間=商品」論なのです。しかしこの話をしだすと切りがないので、ホームページに掲載されている関連の諸論文をお読みいただくとしてマルクスに帰りましょう。

佐々木:労働が必然的に疎外の構造を持つということは、人類的な視点で捉えるとよく分かります。文明は人類が生み出した労働生産物ですが、これは人類の自己疎外として現れています。この疎外は必然的なように思われますが、どうですか。

やすい:私が労働は自己対象化、自己実現としては本来的には疎外されないものだというのは、あくまでもその限りでありまして、決して現実の社会関係の中では疎外されたものにならざるを得ないことを否定するものではありません。マルクスは私有財産制のもとで市場経済が展開すれば、必然的に労働の疎外が起きると考えていたようです。文明は財産の集積を前提にしていますから、市場経済の一定の発達に伴っていました。その上で国家権力の収奪や戦争、交易などで富が集積したわけですから、その下で厳しい収奪や酷使に耐えた人民の疲弊があったのです。労働それ自体に疎外があるとなると、疎外された労働を生み出す原因の追求が行えなくなるのです。

           ☆第四章に進む      ☆第ニ章に戻る   ☆目次に戻る