第四章 非有機的身体と人間的自然
わが心天地の心と一つなり、天地は我の五体に近しや
佐々木:フォイエルバッハの影響が強かったと思いますが、『経済学・哲学草稿』では「自然は人間の非有機的身体」という捉え方があります。また「人間的自然」という表現や、「貫徹された自然主義は貫徹された人間主義であり、貫徹された人間主義は貫徹された自然主義である」という表現もあって、こういう表現が人間中心主義なのか、それとも人間中心主義と自然主義の対立を乗り越えるものなのかということが大問題だった気がしますが。
やすい:「非有機的身体」というのは、身体的な器官としてはつながっていないけれど、器官同様生きていく上で不可欠なものになっているものという意味でしょう。動物のレベルで考えますと、貝の貝殻、蓑虫の蓑、蜘蛛の糸、鳥の巣、狐の罠、ビーバーのダムなどが挙げられます。人間の場合はいまや地球全体を非有機的身体にしているわけです。
佐々木:その意味では人間概念を自然にまで拡張する試みは『経済学・哲学草稿』で既に試みられているのですね。
やすい:ええ、我々は『経済学・哲学草稿』ショックから脱却できていません。マルクス主義の基本文献を読み始めたのは高校生の頃だったのですが、大学生になって『経済学・哲学草稿』に出会い、自然を人間の身体として捉える発想に感銘しました。つまり自然を他者ではなく、自己自身として引き受け、自然の自己意識になろうとしているわけでしょう。これはすごいと思いましたよ。
佐々木:しかし、本来他者でしかない自然を自己の身体にしてしまうということは、自然を人間中心に捉えて、人間の手段にしてしまうことではないのですか。
やすい:そういう解釈はマルクスに気の毒ですよ。マルクスは「人間は自然の一部」という立場に立っています。そういう意味で自然は人間の身体なのです。ですから、人間の意識は自然の自己意識だというシェリングの発想を継承しているわけです。
佐々木:ドイツ観念論は、「同一哲学」だと言われます。「存在と意識の同一性」を強調したわけです。カントでは現象界に関する限り、認識されたものは感覚を統覚の先天的なカテゴリーで統合したものである、ということは人間は人間の意識内容を存在として認識しているだけだということですね。フィヒテはだから、意志の自己展開として世界を論じました。シェリングは逆に人間の意識こそコスモス自身の意識であり、コスモスの現れだということです。ヘーゲルはこれらを総括して、絶対精神の自己展開として哲学体系を作り上げたわけですね。マルクスもその延長上だということですか。
やすい:存在が意識された存在である限りは、観念論に嵌るわけですが、意識が存在についての意識である限りでは、唯物論的です。それでマルクスは「貫徹された自然主義あるいは人間主義が、観念論とも唯物論とも異なっていること、また同時に、それがこれら両者を統一する真理であるということを我々は見いだす」と述べたのです。つまり同一哲学としてのドイツ観念論は、「存在が意識と同一だ」ということを強調した。それに対してフォイエルバッハやマルクスは「意識は存在と同一だ」という面を打ち出したのてはないでしょうか。つまり、意識が主体だと言うのに対して自然が主体だという立場です。ただしそれは、人間主義を否定して自然主義を打ち出すのではないのです。そうではなくて、自然を自己の身体にしているような人間主義を打ち出した。それは人間の意識を自然が取り込んでいるという意味では貫徹された自然主義だけれど、自然を自己の身体にしているという意味では貫徹された人間主義です。これこそ人間と自然の断絶を乗り越えるロマン主義の極致ですね。
佐々木:しかしそれでは「存在と意識の同一」というドイツ観念論の枠内にいるわけでしょう。意識の土台や、意識の彼岸としての物質概念には到達していないわけで、唯物論とは言えないのじゃないですか。
やすい:そういう場合の「唯物論」は、「意識から独立した客観的実在」を物質だと捉えるレーニンの『唯物論と経験批判論』の影響があるのではないですか。意識から独立しているのだったら意識には捉えられないわけで、マテリー(質料)と混同されています。実際唯物論はマテリアリスムス(質料主義)と混同されがちです。
☆第五章に進む ☆第三章に戻る ☆目次に戻る