第五章 『資本論』における価値ガレルテ論

                労働が膠になりてとりついて物を価値だと誤たせしとは

佐々木:『経済学・哲学草稿』では人間的自然や非有機的身体として社会的諸事物や人間環境を構成する自然が、人間の定在に含まれて捉えられていたとも解釈できるのですが、他方でマルクスにはそれと矛盾する捉え方もあるように思われます。それは社会関係を身体的な諸個人の関係として捉えようとする見方です。つまり、社会的諸個人や環境的自然も含めて社会的関係を捉え返そうとすると、それは人間関係を物と物の関係に置き換えているのだという批判が戻ってくるわけです。いわゆる物象化論やフェティシズム論ですね。

やすい:ええこれは『資本論』で本格的に展開されているわけですが、労働価値説と不可分の形で主張されています。つまり商品の本質は価値ですね。この価値は事物に対象化され、事物の価値支配力となった労働が実体です。この労働は既に事物になっているわけです。ところがマルクスは、価値実体としての労働は事物の属性ではないというのです。それは抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)だと主張します。具体的有用労働なら具体的な活動ですから、具体的有用物の姿になって対象化されます。効用は事物の属性と考えてもよいのです。しかし抽象的な労働は具体性を捨象してしまいますから、事物には成り得ないというのです。ですから抽象的人間労働それ自体のかたまりとして労働生産物に付着しているというわけです。それで膠質物という表現がぴったりくるのです。こうしておけば価値関係は事物に付着している抽象的人間労働の固まり同士の関係であり、人間関係に他ならないというわけです。

佐々木:それで商品関係は労働生産物の関係のように見えるけれども、人間労働同士の関係であり、現実的な諸個人間の関係に他ならないというわけですね。それを価値関係とすることで、あたかも価値が付着している労働生産物の関係であるかに置き換えられているのだという理屈ですね。この価値つきもの説は、やすいさん独特の解釈で、ほとんど知られていないですね。

やすい:それが思いついた当時いろいろ調べまして、真木悠介さんの『現代社会の存立構造』(一九七七年、筑摩書房刊)にも同様の表現があったと記憶しているのですが、もう一度読み返してどの程度共通しているか確定しないといけないと思っています。

佐々木:普通、フェティシズム論では人間が作ったものが自立して、それ自身の論理で社会関係を取り結び、主体である人間を支配しているような場合を指しますね。物が人間関係を取り結んでいるようなのがフェティシズムです。

やすい:しかし、マルクスの意図は、それは物の属性のように見えるけれど、実は人間の関係なのだといいたいのです。

佐々木:フェティシズムというのは、元々は例えば蛇とか石とかを神として崇拝するわけです。それを経済に置き換えますと、品物を価値と見なしたり、紙切れや金属片を貨幣つまり一般的等価形態とみなすわけでしょう。そういう人間でない事物を崇拝するので、マルクスは倒錯だといったわけですね。それをやすいさんは、崇拝している対象を事物ではなくて、事物にとりついている抽象的人間労働の塊だと言うのですか。

やすい:いいえ、マルクスは事物やその効用が価値なのではなく、抽象的人間労働の固まったもの、つまり膠質物(ガレルテ)が価値だと定義しているわけです。ですから典型的な労働価値説ですね。それを極端に純化しているのです。

佐々木:廣松渉は、投下労働価値説はマルクス自身の説ではなくて、「叙述の便法」だとしていますね。

やすい:それはマルクスが言ったことではないのです。廣松さんの解釈にすぎないわけです。マルクスが自己疎外論を払拭し、主客図式を超克しているとしたら、おそらくマルクスは労働が投下され固まって価値になるという、主観・客観を前提した捉え方にはならなかったはずだという廣松さんの立場にひきつけた我田引水なのです。『資本論』でも口先で唱えるように読んでいてはマルクスの真意は分かりません。ですから廣松渉みたいな鬼才が現れて、廣松的な「マルクスの哲学」に基づいて解釈されてしまうと、ひょっとしたら『資本論』はスミスやリカードの労働価値説を批判的に継承したのではなくて、乗り越えたのではないかとコロッと思ってしまう人が多いのです。

佐々木:やすいさんのマルクス批判は、価値が抽象的人間労働のガレルテだとマルクスが表現しているところに向けられているのですか。

やすい:価値が抽象的人間労働の固まりだというのはその通りなのです。ただじゃあ抽象的人間労働の固まりは、労働生産物の属性ではないのかということですね。

佐々木:マルクスは価値を労働生産物の属性とは捉えていないということですか。

やすい:もし労働生産物の属性として価値を捉えているのだったら、価値は労働生産物の性格ですから、労働生産物を価値物と見なしていいわけです。すると事物を価値と捉えるフェティシズムだということにはならないでしょう。

佐々木:事物が価値を属性としているから、それを崇拝するのはフェティシズムではないのですか。

やすい:マルクスはフェティシズムを倒錯だと批判しているのです。超越神信仰の立場にたっている人々にとっては、蛇や石を神として崇拝している人々は、とんでもない倒錯に陥っているわけでしょう。蛇や石ころが人間たちの願いを叶えるオカルト的能力を持つはずがないと考えています。フェティシズムは最も幼稚な迷信だと思われているのです。マルクスがこの未開人の宗教が資本主義社会では最も普遍的な信仰になっていて、その倒錯の上に経済が成り立っていると批判しているわけです。

佐々木:ということは、マルクスの考えでは、労働生産物は価値を属性として持っていないにもかかわらず、それ自体が価値だと思われているというわけですね。でも実際にマルクスは抽象的人間労働によって労働生産物が作られているとしているのではないのですか。労働は具体的有用労働だけではなく、抽象的人間労働でもあるという二重性をもっているのですから。

やすい:それは同じ労働の二面性だから、それは作り出した労働生産物の二面性になるという解釈です。労働生産物は効用(使用価値)と価値という二面を持つわけですから。

佐々木:商品分析も使用価値と価値の分析から始まっています。

やすい:ええ、「商品分析」はね。マルクスは労働生産物と商品を区別しています。商品の本質は価値だけれど、労働生産物の本質は価値ではありません。マルクスの考えでは労働生産物に価値は属していないのです。

佐々木:それは商品ではない労働生産物の場合であって、商品である労働生産物には価値が属しているのではないですか。

やすい:その解釈は佐々木さんの我田引水なのです。我々は常識によって解釈しがちです。ですからマルクスが必死になって強調していることをあっさり読み落としてしまうのです。つまり労働の二重性を強調したのは、それによって形成されるものは別のものであって、両者を混同するのは倒錯だという意味なのです。

佐々木:具体的有用労働が使用価値を形成し、抽象的人間労働が価値を形成するわけでしょう。両方とも労働生産物に属するのではないのですか。

やすい:使用価値と物は区別されていないのです。この「使用価値=物」かどうかで第二次世界大戦後、安倍隆一と森信成のはげしい論争がありました。『資本論』解釈としては安倍隆一の方が正しいのです。つまり具体的有用労働が形成するのは労働生産物で、抽象的人間労働が形成するのは価値なのです。

佐々木:価値というのは労働生産物の価値でしょう。

やすい:そう見えるのは倒錯だとマルクスは言いたかったのです。マルクスの価値の定義は、「価値は抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)である」というものです。このガレルテは「凝結」とか「凝固」とか訳されています。つまり抽象的人間労働の固まりが価値だという意味ですね。

佐々木:その固まりとは労働生産物のことではないのですか。労働生産物の具体的有用性を捨象したのが価値なのですから。

やすい:そう思うのは佐々木さんであり私なのであって、マルクスではないのです。つまれ「凝結」や「凝固」と訳しますとそういう解釈を生む余地が残ります。しかしそう解釈しますと、労働生産物を価値と見なすことがフェティシズム的な倒錯にならないわけですね。先ほども言いましたが、マルクスは労働生産物という物の方に価値があるのではなく、労働に価値があるという立場なのです。それで物に価値を属させる見方は倒錯だというのです。佐々木さん流の解釈だと、物を価値ありとして崇拝するのは物神信仰だとしても、きっちり物に価値を認めておられるのですから、本気で信仰されているわけです。ところがマルクスは佐々木さんのような自然神信仰ではない、それでそういうのはフェティシズムだよと言っているわけなのです。

佐々木:するとこうですか。マルクスによれば、抽象的人間労働の固まりとしての価値は、労働生産物の外にある別の存在だということですか。だとしますとやすいさんが必死になって批判された廣松説に屈することになりませんか。廣松説だと価値は労働の社会関係であって、生産物の属性ではない、生産物の属性だと思われるのは、生産物が労働の社会関係からそう見なされる物象化的倒錯によってであるということになりますね。

やすい:それは鋭い反論ですが、マルクス自身は「価値は抽象的人間労働のガレルテ」だとしているのですから、抽象的人間労働は投下凝結されているわけです。ただし、投下凝結されても労働生産物になるのではなく、抽象的人間労働それ自身の固まりになっていて、膠としてくっ付いているというのです。ですからガレルテ(膠質物)は、無造作に「凝結」や「凝固」と訳してはだめなのです。フェティシズム批判が抜けてしまう懼れがありますから。

佐々木:でもレトリックということも考えなくっちゃ。やすいさんの解釈だと、マルクスは抽象的人間労働自体が固まって労働生産物にくっ付いていることになってしまいますが、そういう抽象的人間労働なんていう憑き物はどこにもありません。私の解釈がマルクス的にはフェティシズムだとしますと、むしろ廣松流に解釈した方が合理的ですね。つまり価値は労働の社会関係であって、マルクスは必要労働時間が労働生産物に価値性格を与える経済関係の仕組みを、あたかも抽象的人間労働の固まりが憑き物のようにくっ付くかにレトリックとして表現したということでしょう。やすいさんはそのレトリックを本気のように受け取られ、マルクスは価値を憑き物として見なしていると解釈されたわけだ。するとマルクスはフェティシズムを批判するあまり憑き物信仰に陥ったということになってしまいます。それはあまりに乱暴な解釈じゃないですか、マルクス研究者は怒りますよ、むしろ笑うかな。

やすい:私も笑いましたよ。レトリックだと思いました。でも本当にレトリックかどうか、マルクスのような科学的に思考をする人は憑き物信仰には絶対に陥らないのか、それ自体面白いテーマですね、まさかそんな筈がないということで調べなかったら、学問的には大きな獲物を取り逃がすことになるわけです。私がいわゆるマルクス主義者だという事で、マルクス批判はしたくないというような抑圧が働いていれば別ですが、生憎私は自分をマルクス主義者だと思ったことはなかったのです。それで『資本論』の中でフェティシズム論がどのように貫いているのか、価値は憑き物として展開されていないかどうかを注意深く読み込んでいったのです。そうすると価値憑き物というのがあながちレトリックではなく、本気だということが分かったのです。いちいち展開すると膨大になりますが、価値が原材料や機械から製品に移転するという表現などはその典型です。

佐々木:それもレトリックだという可能性もあるでしょう。

やすい:それは『人間観の転換―マルクス物神性論批判―』(青弓社一九八五年刊、ホームページに『資本論の人間観の限界』と改題して掲載)で展開していますから、じっくりお読みください。

佐々木:では一応価値が抽象的人間労働それ自体の固まりで、労働生産物に付着しているとマルクスが考えていたことにします。そうしますとどうして労働生産物が価値であるかに倒錯されるのですか。

やすい:具体的有用労働ですとその成果は具体的な有用物になりますが、抽象的人間労働ですと労働が継続したという事実だけですから、具体的な物にはなりえません。ですからそのガレルテは具体性がなく無色透明です。ですからそれは膠ですので、くっつくのですが、たとえくっついていても見えないわけです。それで価値は労働生産物の属性であると誤解されてしまうのだとマルクスは考えたのです。

佐々木:それでは、やすいさんは価値はそういうつきものではないとするわけですから、抽象的人間労働が凝結して、労働生産物の価値という性格に成っているということですね。そこで労働生産物が価値だと思って崇拝するのは倒錯ではないということでしょう。

やすい:ええ、そうです。マルクスの考えでは、商品は商品経済の中でだけ商品なので、労働生産物それ自体は商品ではないと考えるのです。衣服や食糧は商品経済の発生する以前から存在したし、将来の共同体で商品経済がなくなってからも存在しています。ですから商品経済で一時的に価値を持ったように見えても、それは社会関係からそのように見えているだけで、労働生産物それ自体は何も変りがないのだから、価値を含む筈がないというわけです。

佐々木:それじゃあ、ますます社会関係から規定されるという廣松説に説得力が感じられますね。

やすい:そうですね。廣松自身の関係主義的な捉え方には、それなりの説得力があります。ただ彼の場合、物か事かという対置があって、物として捉えること自体倒錯だという事的世界観があります。しかし事も結局は物の関係でしかありえない面を持ちますから、私は事的世界観だけを真理だというような発想は取りません。

佐々木:やすいさんお得意の「哲学の大樹」ですか、事的世界観と物的世界観の弁証法的統一ということですね。

やすい:私は無理に価値を憑き物にように捉えなくても、商品生産で作られた労働生産物には、商品社会を構成しているわけですから、他の商品に対する支配力としての価値性格を認めてもいいと思うのです。その場合に商品生産発生以前とか、商品生産止揚以後の労働生産物とは効用面では同じでも、商品として活躍する分は違うわけですから。

佐々木:衣服や米としても違うということですか。

やすい:ええ、効用としては衣服であり米であり全く同じです。でもその衣服は商品として作られたのなら、商品としての働きを流通や消費面でするわけです。

佐々木:そういう流通や消費は人間の営みだから、労働生産物それ自体の規定ではありえないとマルクスは考えたのですね。

やすい:もちろん労働生産物に関する規定ですから、あたかも労働生産物が商品であり、価値を本質として持つように思われるけれども、それは抽象的人間労働の固まりが労働生産物とりついているからそう見えるだけで、価値の実体は抽象的人間労働なのだから、あくまでも価値は人間の社会関係だというわけなのです。

佐々木:やはり価値は人間の社会関係なのだから、それがガレルテとしてとりついているというのはレトリックでしょう。

やすい:マルクスは関係だから実体がないとか、事だから物ではないとかという発想はしていません。例のフォイエルバッハ・テーゼの「社会的諸関係の総和」としての人間だって、関係に還元されているから物ではないというわけではないのです。

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