第六章 『資本論』の人間観の限界
雇われて働く者のみ価値を生む、一点張りでは視界狭めり
人間は身体のみの存在か物の中にぞ己見出す
佐々木:そこで価値ガレルテ論から帰結する『資本論』の人間観の限界というのはどういうことなのですか。
やすい:『資本論』の最大のテーマは剰余価値理論を確立するところにありますね。つまり労働者の労働がすべての価値を生むのであり、そこから労働力の再生産費を差し引いた剰余価値が利潤の源泉で、それが資本に転化するという論理があります。これに対して、資本家の利得を正当化する経済学からは、資本家が所有する生産手段や資金などの役割を強調し、資本家の利潤獲得を擁護しようとするわけです。そこでマルクスは生産手段がいかに生産に大きな役割をしているとしても。それは手段でしかなく、生産の主体は労働者であること、そして価値はあくまで労働者の労働だけが生み出していて、機械や原材料は働いていないことを強調します。
佐々木:それは労働者の立場に立っているのですから当然ですね。やすいさんは労働者の労働だけが価値を生むという考え方にマルクスの限界を見出されるのですか。つまり生産手段も価値形成に大きな役割を果しているといわれるのですか。
やすい:一九八〇年代の後半に、その話をマルクス研究家の多い学会で発表しましたら、怒り出す人がいましたが、今ではそういう元気はないでしょう。マルクスは物と人間を峻別し、労働を労働者の労働に限定し、これに生産主体を限定しました。そして価値を労働者の抽象的人間労働のガレルテと定義してしまいました。それを前提として展開するので、ところどころで無理が生じます。でも彼は、それをフェティシズム論で強引に突破していきます。たとえば生産は労働者だけでなく生産手段も一緒になって働いて行われ、生産物ができますが、その主体は労働力だけであって機械は手段だから働いていないことになり、当然価値生産には加わっていないことになります。でもちゃっかり生産手段の価値は生産物に移っているのですね。その分も労働者の労働がしたことにしなければならないわけで、これが具体的有用労働による価値移転論です。
生産組織や機械の改良による飛び抜けた生産性の獲得は、特別剰余価値をもたらしますが、その際に労働者の労働自体はかえって単純化していて,とても労働者が特別剰余価値を生み出したとはいえないのですが、マルクスは最新の機械が普及するまでの間、技術革新によって労働者の労働が強められて特別剰余価値を生み出したのだとするのです。
マルクスは定義的に生産主体や労働主体は、労働者でしかありえないという大前提をおいています。そして機械は単なる手段という立場で展開しますから、生産手段が自己の価値を生産過程で生産物に対象化するという活動を評価できません。そんなことをすると物が労働することになるので擬人化であり、フェティシズムになってしまうからです。
佐々木:それじゃあ、やすいさんは生産の主体は労働力だけではなく、生産手段も一緒に働いているのだと考えておられるのですか。
やすい:道具と機械の違いを考えてみると理解しやすくなると思います。道具は人間の身体の延長という捉え方で説明しやすいのですが、機械となると立場は逆転します。むしろ人間身体は機械の部品となって、機械が自動的にこなせない作業を補完しているのです。ですから特に労働者の作業が特別に主体的ではありません。むしろ機械的に作業をこなさなければならないのです。生産主体は企業全体であると言えるでしょう。そこでは個人単位の人間観では対応できないのです。逆に言えば労働者の個人的な身体は、小型の多機能自動機械となっており、その維持・再生産費が賃金です。もちろんそれは人格を備えていますので、人格に対するさまざまな配慮が必要になりますが。
佐々木:ということは機械制大工業の時代では、機械が生産の主力になっており、その機械がまだ不完全な部分を人間身体が機械部品あるいは多機能小型自動機械として補完しているだけで、最終的には完全自動化の無人工場になっていくということですか。そうしますと、身体的個人としての人間でなく、機械も含めた企業全体としての人間という捉え方も必要だということですね。そこまでいくと未来論みたいで、まだ現実論としてはピンときませんね。そういう事も考えておく必要はあるでしょうが。
やすい:マルクスは機械の圧倒的な意義を捉えているわけですが、それで特別剰余価値の生産を最新鋭の機械が行っているように見えることを強調していますが、それでも機械が価値を産むことはあり得ないという立場に固執するので、機械によって「強められた労働」つまり労働者の労働が特別剰余価値を生んだとしているのです。
佐々木:それでやすいさんは、それは機械を含めて人間を捉えない限界からきているので、機械も含めて人間と考えれば、特別剰余価値を機械が生み出したことになるわけですね。としますと、労働者だけではなく生産手段も労働しているという論理になり、剰余価値だって、労働者から搾取しているとは限らなくなりませんか。搾取理論が崩壊してしまいます。
やすい:マルクスは可変資本と不変資本という区別を立てて、可変資本である労働力からだけ剰余価値が生み出される仕組みを明らかにしました。不変資本は原則的には剰余価値を生みません。例えば一億円の機械は、一億二千万円の価値を生み出して償却されるとしますと、一億二千万円でも売れるわけですから、市場全体を考えますと、平均的には剰余価値を生み出すことはないわけです。特別剰余価値を生む場合には別ですが。それに対して可変資本はその再生産費が賃金として支払われますが、その分しか価値を生まなければ剰余価値がでませんので、資本家は利潤をえることができません。それで原則的には賃金以上に価値を生み出して剰余価値を資本家にもたらす労働力のみを雇用することになります。それで可変資本だけが剰余価値を生むということになります。生産手段も価値を生むとしても不変資本の場合は、自己の価値分と等量の価値を生産物に対象化することになり、そこには平均的には搾取は起こりません。やはり労働者の労働から搾取するという理論は有効です。ただし技術革新によって機械の働きから特別剰余価値を獲得することができるわけです。そして市場の平均より安く買って、より多くの価値を機械が対象化するような工夫をすることで剰余価値が生まれるわけです。
佐々木:それは剰余価値というより利得のようなものではないのですか、物を運用して利益をあげたわけですから、労働力の場合は相手は人格であり、支配下において必要労働時間以上に働かせて、剰余価値を搾り取ったわけですね。物の場合は搾取されているという感覚はありませんが、労働者の場合は労働を強化させられたり、労働時間を延長させられたりして苦痛を伴っていますよね。人と物を混同するのは酷いのじゃないですか。
やすい:今は経済学的な地平で語っているわけでして、経営学上の労務管理の水準ではありません。剰余価値が生み出されるかどうかで人格や感情を登場させる必要はまったくないわけです。人と物の区別も経済学においてはむしろ止揚されるべきではないかということなのです。経営学ではそうはいかないのは承知しているつもりです。梅本克巳は、人間は商品という物ではあり得ないのに、資本制生産では労働力商品として物化、商品化されてしまうという矛盾を問題にしました。この物化・商品化を拒否しようとするところに主体性を求めるわけです。
佐々木:そういえば学園紛争の時代に大学解体を叫んだ全共闘は、大学が労働力商品製造工場になっているとして、校舎をバリケード封鎖しましたね。
やすい:人間の本質を問う場合に、他の動物対してどのような能力が秀でているかを問題にすれば、答えは理性的能力ということになります。もちろん主体性や実践に人間の特色を求めるのもいいでしょう。しかし経済活動の構造的認識が問われている場面では、人間は物と物との関係を通して社会を形成し、物として自己を認めさせなければならないのです。物化や商品化を非人間化としてそれらに包摂されることを避けていますと、社会の中で生活できなくなります。
佐々木:生産手段も労働しているみたいに言われますと、にわかには納得しかねますね。労働という概念は、主体が予め思い描いているものを目的意識的に作り出すという内容をもっていると思うのです。ところが生産手段だと、意識的に活動しているとはいえないので、全く的外れな滅茶苦茶な議論だと思うのですが。
やすい:道具の場合、手の延長として捉えられますね。すると労働する主体としての人間には道具も含まれているわけです。主体を意識だけに限定せずに、働きかける人間としますと、それは身体およびその延長としての道具を含みます。それを労働しているのは身体だけで、道具は意識しないから労働しないとはいえないわけです。たしかに身体と道具を分けましてどちらが人間かと問われますと身体だと答えます。でも生産の場で労働する場合は、そのような身体と道具を分けてどちらが人間かを問うのは間違いです。道具があって初めて働けるわけですから。
機械制大工業のもとでの労働は、機械が主力で労働者の作業はその補助として機能する場合が多いわけです。それを機械の分は人間ではないからといって差し引くわけにもいきませんし、機械を動かしているのは労働者の作業だと強く主張するわけにもいきません。
佐々木:機械だって人間が作ったのだし、機械を動かすのも人間だと言えないと何か人間には手におえないようになってしまいますよ。
やすい:その人間に機械を含めることによって、人間が生産主体であると言えるわけです。つまり労働者個人の身体と機械を包摂した機構としての企業システムが、機械の機能や労働者の作業を統括して生産主体として仕切っているのです。その中で労働者の労働も機械の作業も生産物とその価値を形成する協働を行っていると言えます。
佐々木:でも機械には意識がないから労働とはいえないでしょう。
やすい:機械には工程がインプットされていて、原材料をプログラム通りに変化させ変形し、組み合わせて予め予定されていた目的通りに製品化するわけですから、装置の中に思想や概念が物質化しているとも言えます。反対に労働力がどれだけ目的意識的かよりも、自動機械としてプログラムを効率的に遂行できたかどうかが問われます。その意味では、いずれは自動機械に取り替えられるべき存在なのです。ともかく全体として人間の意志や目的のもとに統合されて対象を変革しているのですから、労働力だけの活動や生産手段だけの活動を切り離してどちらが人間かを問うのはナンセンスなのです。
佐々木:しかしやすいさんが機械や生産物をも含めて人間だと言われると、個々の機械や生産物もそれぞれ人間だといわれているような気がするのですが。
やすい:それは身体的諸個人がそれぞれに人間だとされていたので、私のように生産手段や生産物にまで範囲を拡張しますと個々の事物もそれぞれに人間という印象になるのは当然ですね。
佐々木:やすいさんの場合、個々の事物がそれ自体で人間いうのではなくて、身体的な個人や社会機構などと結合し、その中に含まれて人間だということなのでしょう。
やすい:それは身体的諸個人でも同じ事です。ただ孤立していれば人間しての本質は発揮できません。狼に育てられたアマらとカマラが人間社会に戻されてもなかなか人間になれなかったようなものです。個々の社会的事物が人間に含まれるのは、それが効用や価値存在として、個人や他の事物との間で社会関係を構成することにおいてです。
佐々木:ということは上着とか携帯電話だとかカレーライスが人間だということでしょう。そうなると人間じゃないものを人間だと言っているような感じで納得できないでしょう。
やすい:人間社会は人間的環境と社会的諸事物と身体的諸個人が生産―流通―消費の循環を形成しているわけです。その限りでそれぞれの事物が存在できているわけですから、刑帯電話が存在できるというのも、人間的効用して認められ商品価値を持つからです。そういう人間的規定を本質としてはじめて存在できるという意味で、携帯電話も人間の定在だと言えるというのが私の「カテゴリーとしての人間」論です。
私の人間論の展開はひとまず措くとして、マルクスの『資本論』では、社会的諸事物が商品として社会関係を取り結んだり、生産で価値を形成しても、それらを人間でないから「机が踊りだす」とか言って倒錯と決めてかかっているわけです。そこで人間観を転換して経済社会においては人間環境も社会的諸事物も身体的諸個人も人間的自然を構成し、経済循環を形成しているので人間の定在として捉え返すべきだというのが私の提案なのです。それは初期マルクスの人間的自然の立場、「貫徹された自然主義は貫徹された人間主義であり、貫徹された人間主義は貫徹された自然主義である」という立場を発展させることになったのにということなのです。