三木清のアントロポロギー
やすい:三木が「交渉的存在」をいかに捉え、そこから人間をどう理解して、人間学(アントロポロギー)をいかに展開したのか、次の引用から検討してださい。
「人間は彼が存在と交渉する仕方に応じ、直接に自己の存在を把握する。彼は存在を語ることに即してそれに於て自己を語る。一切の物は、人間の交渉を受ける程度に応じて、人間にとって見ゆるものとなり、即ち初めて物となり、ここに於てその
称呼
、その名称を与えられるのであるが、その場合、ノアレによれば、『固有の人間の活動が原本的語根の内容として留まるのである。』この過程に於て彼が自己を語るところの言葉即ちアントロポロギーが生れると共に、このロゴスはひとつの独立なる力となり、彼の経験の先導となり、支配者となる。このとき彼の経験する存在は凡て人間学的なる限定のもとに立つこととなる。かようにして、高次のロゴスである歴史的社会的諸科学が自己の研究の出発点に於て与えられたる現実として見出すところのものは、つねに既に斯くの如く人間学的なる限定のもとにある存在に外ならないのである。」
野口:「人間は彼が存在と交渉する仕方に応じ、直接に自己の存在を把握する」の「存在」は存在論的な状態性や実存だけでなく、自然的・社会的な諸事物も含まれると解釈されるのですね。そして諸事物は人間の活動を対象的な事物の姿で捉えたものなのですね。
やすい:ええ、この時期の三木の立場は、実践を存在の根底に置く「実践的唯物論」に最も近かったと思われます。初期マルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の冒頭に「従来のすべての唯物論の(フォイエルバッハの唯物論も含めて)の主要な欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとでのみとらえられ、感性的な人間的活動、実践としてはとらえられず、主体的にとらえられていないことである」とあります。これは目の前に現れる事態や現実、様々な事象を客体的な事物として固定的に捉えたり、ただその場の直観的に見えたままの姿で捉えてしまっては駄目ですよ、事態や現実や事象というのは、根底的には人間の活動の状態なのであり、我々の実践のあるがままを表現しているものとして主体的に受け止めなければならないというのです。
野口:普通、唯物論は世界が自然的社会的な諸事物から構成されていて、それらの中で人間の諸活動が行われていると捉えています。ところがマルクスの立場では、諸事物が諸事物であるのは、活動や実践との相関関係においてなのです。読書という活動抜きにこの紙の束が書物であることはなく、寒さを防いだり、見栄えを良くすること抜きに、この布切れがセーターということはないのです。
やすい:ええ、この部屋を仕切っているのでこのセメントは壁であり、この板ガラスは窓なのです。
野口:一寸待ってください。部屋を仕切るという活動はこの建物を建てる時には、確かに人間の活動だったのですが、今現在ではこの壁や板ガラスなどの事物が行っているのではないのですか。
やすい:そこですよ、問題なのは。人間が作り出したものは、人間として活動を続けるわけです。実践を根源に置くとすれば、人間を身体的な枠内に閉じ込めておくことはできないんです。生産物や機構なども含めた人間を捉え返すべきだとうのが私の『人間観の転換−マルクス物神性論批判−』(青弓社刊)の議論です。
野口:壁は部屋を仕切っていますが、別に部屋にそうする意図や自覚があるわけじゃありませんし、それ以外にはなにもできません。つまり壁は所詮壁でしかなく、人間ではないのです。
やすい:壁は壁でしかないというのは、人間の身体ではないということを意味しているのでして、人間を構成していないということではありません。三木の解釈では、社会的な諸事物は交渉的存在ですから、人間の活動を対象化したものとして捉えられているのです。ですから三木の人間学は、交渉的存在である人間の身体や社会的事物の解釈を通して、人間の行為のありのままの姿を解釈する営みなのです。三木は、人間を精神物理的統一として捉えました。それは人間の身体が精神物理的統一であるだけでなく、社会的諸事物も精神物理的統一であると捉えていた可能性もあります。紹介しておきましょう。
「ところで歴史的社会的存在界を構成する者として、そして同時にそれと交渉する者として、人間は、単に精神ではなく、精神物理的統一であり、単に思惟する主観でなく却て意志、感情、表象のあらゆる方面に自己を表現する統一的主体である。」
野口:意志・感情・表象を持っているのでしたら、壁やパンだとは考えられないでしょう。
やすい:単なる物体ではない、交渉的存在としての人間学の対象である「壁」は、壁と向き合い、交渉している身体に媒介された存在です。その意味で個々の壁は、その壁をめぐる意志・感情・表象を含んでいるのです。こうして三木のアントロポロギー(人間学)では、物が人間を語ることになります。これは西田の絶対無の立場立って、「物と成って見、物と成って考える」の人間学的解釈と言えるかもしれません。
野口:それでは西田や三木の立場は、物によって社会的諸関係を構成するのですから、『資本論』におけるマルクスの立場からは、全くのフェティシズム(物神性)的倒錯だということになりますね。ところがマルクスも三木も、やすいさんの解釈では実践的唯物論だったというのですから、首尾一貫しませんね。
やすい:そういう意味ではマルクスのフェティシズム論は、人間と社会的諸事物の区別に固執していて、対象を主体的に捉え返す実践的唯物論が貫徹していないといえます。