実在としての薔薇の意識
やすい:西田哲学ではあくまで経験を実在として捉えますから、現象即実在なのです。それは人間の感覚によって構成された事物が実在だということですが、その場合、ノエシスつまり意識の作用面とノエマつまり意識の対象面の統合としての事物が実在なのです。それは人間の意識でしかないという意味では、無の面を持っています。
野口:個々の事物が単なる主観の意識でしかないのでなく、実在でもあるのは、それが一般者の自己限定でもあるからでしょう。
やすい:そうです。個々の意識は自然的・社会的な諸連関の中で成立します。それを各個人は、私の意識としか受け止められないものですが、観念や言語による認識は、生物的な種の体験知を踏まえたものですし、社会システム全体の活動の一環として機能しているのです。ですからこの花を薔薇として意識できるのは、社会的にだれもがこの花をチューリップではなく、薔薇だと意識するからです。それが一般者としての薔薇の自己限定という意味です。ですから私の意識は、同時に社会システムの意識でもありますし、薔薇の意識でもあるわけです。
野口:薔薇が意識するのですか、薔薇に関する意識なんじゃないですか。
やすい:この花が薔薇だという時には、この花は個物ですから、個物としては一般者ではないのです。つまり、一般的に薔薇とは言えないと西田は考えます。でもこの物という個物の意識は、意識している個人に固有であって、一般化できないけれど、一般化しなければ何物でもなくなってしまい、規定できないわけです。
野口:それで個物は個物であることを否定して、一般者として自己を規定するわけですね。その場合の意識は、一般者としての薔薇が意識しているのではなくて、私が一般者としての薔薇を意識しているのではないのですか。
やすい:「私が意識する」という言い方には、西田哲学の立場からは抵抗があります。つまり霊魂が実体としてあって、それが意識主体として意識を生み出しているというデカルト的な捉え方はしません。自我はあくまでも意識自身が自己を統合する働きを指しているにすぎないのです。「この花は薔薇である」という意識は、一般者としての薔薇がこの花として現れたこととして捉えられます。
野口:でもそれは私の意識に現れているのであり、意識しているのは私で、薔薇ではないのでしょう。
やすい:「意識する私」と「意識内容」と「意識対象としての事物」の三者は、意識現象が実在である立場からは、本来、純粋経験や行為的直観としては未分化なのです。薔薇が意識として現れることが意識するということなら、この意識が薔薇が生み出しているとも言えるわけで、一般者としての薔薇の意識とも言えるわけです。
野口:それじゃあ具体的に西田の書いたもので、事物が意識するという表現を抜き出してもらいましょうか。
やすい:『日本文化の問題』で、西田がよく使うフレーズとしては「物と成って考え、、物と成って行う」という言葉ですね。西田の『働くものから見るものへ』への「内部知覚について」の中にこうあります。
「数理を考へるといふことは、数理自身の内面的発展と考へられなければならぬ如く、色を視るといふことも、色自身の内面的発展でなければならぬ。考へるといふことが、思惟が思惟自身を見るという得るのみならず、見るといふも色が色自身を見ると云ふことができるでもあらう。」
また『無の自覚的限定』にもこうあります。
「判断とは物が物自身について語ることでなければならぬ、客観的存在が自己の客観的内容について語ることでなければならぬ。」(全集第6巻15頁)
野口:なるほど、でも例えば「雨が降っている」という判断は、客観的に「雨が降っている」という事実に照応していなければならないことを西田は指摘しているのではないのですか。
やすい:それは違います。意識現象が実在なのですから、事実も意識現象に他ならないわけです。だから「雨が降っている」という判断は、「雨が降っている」という経験を意識として反省したものに他ならないわけです。
野口:それじゃあ、「雨が降っている」のが事実かどうかは問えないじゃないですか。
やすい:「雨が降っている」という判断は、実際に雨の中での体験もあれば、屋内にいて、屋外の天候を推測している場合もあります。言語表現では同一でも、同じ体験に基づくものとは言えません。当然、言語表現が事態を正しく表現しているか問える場合もあり得ます。いずれにしても、「雨が降っている」という判断を下すような、体験があることは共通しているのです。そしてこのような体験を構成しているのが、実在としての事物なのです。